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コラム「風」沖縄と韓国を結ぶ李芸 ~顕彰碑建立で友好の絆を~:嶋村初吉

 数カ月前、北朝鮮が衛星(ミサイル)を打ち上げると宣言した直後、観光にも影響が出た。とりわけ、衛星の通過コースにあたる沖縄は観光客のキャンセルが相次いだ。北朝鮮の衛星打ち上げが失敗に終わったその後は、観光客は順調に戻っていった。なかでも、中国からのツアー客が目をひく。ソウル―那覇直行便もあり、韓国の観光客も見かけるが、その比ではない。


▼5月中旬、韓国人の友人と那覇を歩いた。室町時代の朝鮮通信使・李芸(イ・イェ、1373-1445、蔚山出身)の子孫、李昌烈(イ・チャンヨル)氏と元外交官・柳鍾玄(ユ・ジョンヒョン)氏である。李芸の顕彰碑を沖縄に建立するため、その候補地を探しに沖縄入りした。

▼李芸は44歳のとき琉球に派遣された。琉球に虜朝鮮人が多数いることを知った第3代朝鮮国王・太宗は1416年、対日外交官として最も功績のあった李芸を代表にした使節を琉球に派遣したのである。

▼そのとき、戸曹判書の黄喜は「琉球国は水路険しく、遠いだけでなく、使節派遣に経費が多くかかるため派遣すべきでない」と反対した。太宗は、彼の意見に反駁し「(被虜朝鮮人が)故郷を思う心は、もともと貴賤に差異がない。仮に、貴戚家から被虜になった者がいれば、卿らは経費が過多なることも咎めるか」と諭した。

▼王命を受けた李芸ら使節一行は剣難の海路を乗り越え、琉球国に渡ったが、その道はまさに命を賭した道だった。この海域には倭寇の跳梁がはなはだしく、また、九州海商の私貿易船が徘徊するなど、海上の治安は官船にとって必ずしも思わしくなく、琉球に達するまでには死をも覚悟しなければならなかった。

▼李芸の事績について、『新・琉球王統史三』は次のように記す。「琉球に被虜朝鮮人が多数いると知った朝鮮王は、琉球に使者を派遣し、使者は44人の朝鮮人を保護して帰国します。これは尚巴志が北山討伐軍を起こして、琉球が激動していた1416年のことです」。

▼李芸は、2005年に韓国の歴史に功績を残した人物を称える「文化人物」に選定され、10年には「韓国外交を輝かせた」外交人物に選定された。李芸は、MBCの人気番組「歴史スペシャル」でも取り上げられ、韓国、日本、中国と広域取材を通して丁寧に描かれている。李芸の後孫は、約2万人いるというが、彼らが歓喜したのは言うまでもない。

▼李芸は、日本では一部の研究者に知られる程度で、無名の人物である。李芸の評伝がなかったが、2010年、『玄界灘を越えた朝鮮外交官 李芸』(明石書店)が刊行され、室町時代の朝鮮通信使・李芸の存在が知られる契機となった。李芸は外交官として諸任務を果たすだけでなく、「国利民福」の助けとなる建議を試みた。その材料は日本で見聞して入手したものである。火焔式武器の鋳造に関する材質、商店街の仕組み、稲作に貢献できる水車、砂糖黍の栽培方法など多岐にわたる。その中に、船舶の建造技術もあった。

▼翌11年、その評伝を見て刺激を受けた東京の金住則行氏(弁護士)が小説『最初の朝鮮通信使 李芸』(河出書房新社)を日韓同時発売し、さらに外交官、李芸の名前が知られる。金住氏は、室町時代にすでに朝鮮通信使が往来し、その正使が李芸だったと、子孫である日本サムスン東京代表取締役を務めた李昌烈氏に聞き、驚いたという。彼の作品は、さらに日韓合作のドキュメンタリー映画制作につながった。

▼その映画を企画したのが、益田祐美子氏(平成プロジェクト)である。彼女は古代の日朝に存在した玉虫厨子と馬具をテーマに、日韓合作映画「海峡をつなぐ光」をプロデュースし、韓日文化大賞を受賞したことでも知られる。李芸の映画では、主役にユン・テヨン氏が抜擢された。彼は「太王四神記」に出演、ペ・ヨンジュン氏の扮するタムドク(広開土大王)に敵対したホゲ役を務めた人気俳優である。

▼那覇市内に「久米」という地域がある。古くは、中国から琉球に移り住んだ中国人の村である。彼らは琉球王国が中国へ朝貢使節を派遣する場合、その先導役を務めた。いま那覇の久米地区を歩くと、久米至聖廟や孔子廟跡地があり、福州園(1992年完成)という歴史公園も作られ、「沖縄の中の中国」という色彩が強い。琉球王国は、中国・明と冊封関係にあり、毎年、進貢船を出していた。琉球で王が交替するときには、即位式に中国から使節が派遣された。王や世継ぎは、中国に認定されることによって初めて正当化された。朝鮮も同じである。

▼那覇の首里城に立って、北京の紫禁城、ソウル・景福宮の勤政殿を思い描き、三者を比べてみると、三者がよく似ていることが分かる。なぜか。琉球と朝鮮は、ともに中国皇帝を頂点とする朝貢体制の主要な一員であり、皇帝を父とすれば朝鮮は兄、琉球は弟という間柄として観念されていた。両者は進貢のたびに北京で交流することがあったはずである。

▼面白い話がある。李芸48歳のとき(1420年)、太宗上王が臨席のもと、漢江で李芸の建議を入れ、新しく建造した朝鮮の船と倭船を競わせた。結局、以前、速力で負けていた朝鮮の船が倭船を制し、太宗上王は上機嫌だった。朝鮮の改造船には、李芸の指摘を受けて、木釘を廃して鉄釘を採用し、速力を上げ海水を防ぐ構造上の工夫を施したのが奏功したが、時間をかけ堅固な造りを目指したことも大きい。この技術革新に琉球出身の船大工が参画したともいわれている。

▼李芸は、対日外交官といわれるように度々、日本へと渡った。彼は、その経験を通して、沿岸を防備し、長い航海に欠かせない船舶の性能が、倭船や琉球船よりも劣っていたことを知った。これは経験に裏打ちされた実感がこもっていた。李芸は、軍器監副正としての功績認められ、栄誉に浴する。功牌を下賜されたのをはじめ、李芸の子孫まで永久に吏役を免除し、子孫を登用する特典が与えられた。

▼李芸は進取の精神に富み、朝鮮社会の発展に結び付く「実学の種」を見出し、国王に建議した。太宗と世宗国王は、李芸の母国愛に心を打たれ、彼に全幅の信頼を寄せた。李芸は朝鮮王朝屈指の外交官であった。

▼沖縄に、李芸の顕彰碑が建立されるまでには、まだ時間がかかる。沖縄で日韓の研究者が集まり、「琉球王国と朝鮮」(仮題)を掲げたシンポジウムを行い、李芸の生きた時代、彼の存在、彼の功績を沖縄の人たちに知ってもらうことが、李芸の顕彰碑建立に先立って必要であることが痛感された。

▼日韓合作映画「李芸」が完成したあかつきには、沖縄上映も行われるはずである。間もなく幕が上がる中島淳一氏の一人演劇、それに劇団太陽でも「李芸」が演じられる。この二つの演劇は、金住則行氏の小説「最初の朝鮮通信使 李芸」に基づいて展開される。8歳のとき、母親が倭寇に拉致されたことがトラウマとなって、心の底に母親探しを秘めた李芸の外交活動が展開された。金住氏の小説では、母親が対馬で生き延びていたという設定になっている。このラストシーンが感動を呼ぶに違いない。

▼李芸の後孫の夢は、沖縄と韓国の絆をより太くするという大きな夢にまで広がろうとしている。かつて韓国と沖縄、中国は「黄金の三角地帯」を形成していた歴史がある。いま、沖縄の観光業界をみると、中国との結びつきが年々深くなっているようだが、それに韓国との関係を強くすることで、沖縄はさらに輝く。そのためにも、かつて琉球王国と朝鮮を結んだ外交官、李芸の存在をアピールできたらいいのではないか。那覇で聞いた李昌烈氏の言葉には、並々ならぬその決意がうかがえた。
[ 2012/06/02 08:57 ] Web管理室 | TB(-) | CM(-)


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