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コラム「風」:日韓の懸け橋―封印を解いた姜(カンハン)の子孫:嶋村初吉

 去る5月4、5日、韓国・釜山で開催された朝鮮通信使祭り。主会場となった南浦洞・龍頭山公園一帯は人並みで揺れた。日韓交流イベントや朝鮮通信使行列再現には、日本からも縁地を中心に400人を超える人たちが参加し、行列再現では同公園から大庁路、そこから光復路に至る街路は沸きに沸いた。沿道には観客が鈴なりとなり、4、5時間に及ぶ行列に歓声が上がり、紙吹雪が舞った。GW期間中、日本で最も人出を集める「博多どんたく」にも匹敵する日韓合同の催しは、すっかり定着した感がある。


▼その盛り上がりも見て、感無量だったのが姜南周氏(カンナムジュ、1939年生まれ)であろう。21世紀を迎え、東アジア時代を創出する通信使祭り実施を釜山市長に提案し、形作った功労者である。国立・釜慶大学校総長を務めたとき、グローバル化に対応した大学改革を行い、同大の存在感を国内外にアピールした。姜南周氏は民俗学、韓国文学を専門にする学者だが、詩人として韓国では名前の知れた方である。
▼総長時代に、日本、とりわけ対馬(長崎県)の高校に呼び掛け、同大への留学を盛んにした。退任後は、朝鮮通信使文化事業会の会長に就任し、朝鮮通信使を通じた日韓交流に乗り出し、そのなかで、行政を動かして釜山に朝鮮通信使祭りを誕生させた。釜山文化財団代表理事も務めている。
▼その姜南周氏が、姜(カンハン、1567~1618)の子孫(第16代目)であることを知り、驚いた。江戸幕藩体制の基礎となる朱子学は、姜によってもたらされた。姜は、日本に抑留された4年間に、朝鮮朱子学を藤原惺窩(せいか、1561~1619)に教え、惺窩がさらに弟子、林羅山に伝授した。林羅山を始祖とする林家は代々、徳川幕府の指南役となり、朱子学をもとに幕藩体制を固めていった。
▼かつて韓国のKBSテレビが歴史スペシャルのなかで、姜を紹介した。そのときのタイトルは「壬辰捕虜体験記『看羊録』」―士大夫、姜は日本に何を残したか」というものだった。姜は秀吉の朝鮮侵略のとき、藤堂高虎軍に捕らえられ、四国・大洲(現、愛媛県)に抑留された朝鮮王朝の文官である。移送された京都・伏見で藤原惺窩に朝鮮朱子学を教えた功績が大きく、「日本朱子学の父」といわれる。
▼姜は1567(明宗22)年、全羅南道霊光郡仏甲に生まれた。本貫は晋州で、朝鮮初期の名儒、私淑斎姜希孟(カン・ヒメン)の5代目の子孫である。代々、高名な儒学者を輩出した名門の家系であった。7歳で「孟子」を一晩で誦んじたといわれる。21歳で進士となり、24四歳で全州別試文科に及第。97年、秀吉の朝鮮再侵略(慶長の役)のとき、31歳の彼は分戸曹判書の従事官として、南原で軍糧供給の任にあった。南原の戦いで敗退後、ただちに故郷の霊光で抗日の義兵をあげ、李舜臣(イスンシン)の水軍に合流しようとしたところ、一家ともども藤堂高虎軍の捕虜となってしまった。
▼4年間にわたる日本での抑留生活を経て、無事に帰国。朝鮮国王(宣祖)に日本の情勢を報告して称讃された。以後、教授職を任じられながらも辞退して赴任せず。直接政事に関与することなく郷里で後進の指導にあたった。没したのは1618(光海君10)年5月6日。享年52歳。
▼姜は、日本抑留記ともいえる『看羊録』を残した。賊中聞見録を中心に、日本の政情探索、自身の抑留された日々を記録している。彼は、日本からの脱出を二度試みて失敗し、王に捧げる報告文を三度、同胞や明国の使節に託した。その一通が王に届き、姜の存在が知られることになった。姜にとって、日本抑留体験が痛手となって、出世の道もさえぎられた。しかし、1607(慶長12)年に日本に派遣された朝鮮通信使は、かつて捕虜となりながら節を曲げなかった姜のことを、中国漢時代の名将、蘇武に例えて称えた。
▼1598(慶長3)年に、藤原惺窩は軟禁されていた李退溪(イテゲ)門流の姜に、伏見の赤松広通(播州・竜野の城主)の宅で会って、朱子学を教えるとともに、赤松の援助を受けて、姜に四書五経を筆写させ、また自らも、その倭訓を作った。翌年春、さらに「五経跋」「文章達徳録綱領叙」を書かせた。藤原惺窩は、中世を代表する藤原俊成、定家を祖とする家に生まれた。7、8歳のころに出家、播州竜野の景雲寺で修行した。父と兄が討ち死にし、僧籍にあった惺窩は難を逃れ、相国寺に入る。惺窩は儒教の国に憧れて中国への渡航を夢みて、実際に薩摩から大唐への船を待ったが、体調を壊して断念した。
▼姜は、藤原惺窩のことを次のように印す。「妙寿院の僧、舜首座(しゅんしゅそ)なる者がいる。京極黄門(藤原)定家の孫で、但馬守赤松左兵(衛)広道の師である。(彼は)大変聡明で、古文をよく解し、書についても通じていないものがない。性格も剛峭(強くきびしい)で、倭では受け容れられる所がない。内府(徳川)家康が、その才賢を聞き、家を倭京に築いて、年に米二千石を給した。舜首座は、その家を捨てて住まわず、扶持も辞して受けず、ただ若州少将(木下)勝俊、赤松左兵衛広通と交遊した」。
▼藤原惺窩の儒学の特色は、きわめて倫理的、実践的で、とりわけ実学的な傾向が強かった。学問は知的な修行が必要だが、実践によってはじめて達成されると考えた。
▼姜について長く書いたが、日本に抑留された人物が、徳川幕藩体制を支える思想を伝授したことに、大きな意義がある。姜は日韓関係の「光と影」を合わせもつ。日本に抑留された刻印が、子孫をして、先祖の偉業を封印してきたとも聞いた。しかし、もはや封印は解かれた。
▼それは第16代目の子孫、姜南周氏が日韓の懸け橋として、釜山に大きな友好のシンボルとなる朝鮮通信使祭りを現出されたからである。さすが学者、姜南周氏だと思うことがある。それは「朝鮮通信使学会」を創設し、歴史を掘り起こしながら、その成果を観光振興に反映させたことだ。たとえば、釜山市東区にある永嘉台(ヨンガデ)。朝鮮通信使が釜山から日本に向けて船出する前に「海神祭」を営んで、航海の安全を祈った施設だが、これを史実に基づき復元された。使節一行を励ます「餞別の宴」という料理も考案されている。さらには、永嘉台のそばに朝鮮通信使歴史資料館を建て、通信使の全貌を紹介し、その研究の成果を網羅する史料を展示している。
▼姜とその子孫、姜南周氏は日韓の懸け橋となる偉業を打ち立てたと思う。姜の『看羊録』を読んで感じたことだが、二人に共通しているのは権威主義者でないこと。人望が厚い人物とは、こうあるものかと接する度に思う。
▼江戸時代、対馬藩の外交官として活躍した雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)は、朝鮮外交の心構えを『交隣提醒』として書き、藩主に説いた。その中にこうある。「誠信の交と申す事、人々申す事に候へども、多くは字義を分明に仕らざる事これ有り候。誠信と申し候は、実意と申す事にて、互いに欺かず、争わず、真実を以って交り候を、誠信とは申し候」。
▼姜南周氏と会うと、この雨森芳洲の言葉が蘇る。日韓関係は、いうまでもなく両国の人が交わりながら、作り出すもの。「光と影」が交差する歴史を踏まえながらも、お互いを高めていく、響き合う関係が構築できるかが重要である。日本に抑留された刻印が、子孫をして先祖の偉業を封印してきたといわれる晋州姜氏が、現代にも大きな足跡を記していることが、我われに大きな希望と勇気を与えてくれる。まさに、朝鮮通信使の役割は何だったのか、ここに答えがあるといえる。
▼1719(享保4、粛宗37)年の第9次使節を題材にした作家、辻原登氏の『韃靼の馬』(司馬遼太郎賞受賞作)がドラマ化される。2009年11月から日本経済新聞の朝刊に連載され、評判となった歴史小説がドラマとなって公開されることで、さらに朝鮮通信使が脚光を浴びることになる。朝鮮通信使から歴史的教訓が紡ぎ出され、日韓関係に広く、深く反映されることを期待したい。
[ 2012/05/12 00:12 ] 嶋村初吉 | TB(-) | CM(-)


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