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飯舘村の酪農家・長谷川健一さんの話を聞く:渡辺幸重

 「全村移住を考えの中に含めていかなければならないと思っている」――飯舘村の酪農家で同村前田地区の区長である長谷川健一さんは語った。7月10日、神奈川県相模原市で開かれた「飯舘の酪農家 長谷川健一さんのおはなしを聞く会」でのことである。長谷川さんは現実を直視するべきだと訴えている。村長の言うように2年で村に戻れるのか。山の除染までできないと安心のある生活はできない。自分は戻ったとしても子供や孫は戻せない。そうなると家族はばらばら。集団で他の場所に移住することもシミュレーションする必要がある。苦渋の表情を隠せず、「原発さえなければ」と書き残して自ら命を絶った友人酪農家のことも紹介した。


村はすべてがなくなった

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 その会場にキャリーバッグを引きながら長谷川さんは現れた。そこは相模原市の東林間児童館の2階。座敷の間に約50人の人たちが待っていた。長谷川さんはフリーカメラマンの森住卓さんの薦めにより全国各地でこのような会を開いているらしい。まず、スライドを映しながら飯舘村の現状を報告し始めた。
 飯舘村の村民は9割近くが避難を終え、今月いっぱいですべて避難が完了するだろう。店はすべて閉まり、ガソリンスタンドもない。郵便局もなく、ポストも閉鎖されている。自動販売機もなく、路線バスも走っていない。ライフラインを除いてはすべてがなくなった、と長谷川さんは言う。54戸205人の前田地区の人たちがまとまって移りたいと奔走したが、それぞれの事情があってかなわず、18戸ほどがまとまって仮設住宅に移る予定だ。「自分は見守り隊隊長として最後に避難します」と長谷川さんはきっぱりと言い切った。

公表をとめられた放射線データ、被曝してからの避難に

 福島第一原発から飯舘村で一番近いところは30キロ、長谷川さんの家は43キロ離れている。事故が起きたのは地震があった3月11日。1号機の水素爆発に続き、14日には3号機も爆発した。どうも様子がおかしいと感じた長谷川さんが役場の対策本部に出向いたら放射線量率が毎時45ジーベルトくらいあるという。これはだめだと役場を出ようとしたら「村長にとめられているから公表しないでくれ」という声がかかったが、「何を寝ぼけたことを!」と前田区の組長、班長に連絡して翌日の集会を決めた。人々が集まったのは15日の午後6時30分。その日は雨で、途中から雪に変わったが、あとから考えるとびしょ濡れで集まったその人たちは高い放射線を全身に浴びていたことになる。長谷川さんは、外に出ないこと、外に出るときはマスクをすること、肌を露出しないこと、外から帰ったときは服をすぐに脱いで風呂に入ることなどを指示した。
 長谷川さんのところには多くのメディアが取材に来た。そこで長谷川さんは放射線量が高いことを訴えた。「なんで20キロ、30キロという制限なんだ。もっと線量の高いところを載せてくれ」と言っても新聞でもテレビでも取り上げられなかった。4月10日には福島県放射線健康リスク管理アドバイザーによる説明会があり、「安全です」「心配しないでください」と言われたが翌日には計画的避難区域になって避難の方針が出た。「こんな人を馬鹿にした話があるか」と怒り心頭に達したが、もう十分に放射線を浴びたあとだった、と長谷川さんは言う。そして、すべての人が避難完了するのは7月末。原発事故から4ヶ月以上経ってからということになる。
 私(筆者)は、1954年3月1日のマーシャル諸島・ビキニで米国が行った核実験により被曝したロンゲラップ島民から話を聞いたことがある。第五福竜丸が被曝した地点に近い島にいた彼らは実験のことを知らされておらず、死の灰が島に降った後に米軍によって救出され、島を離れた。私は長谷川さんの話を聞きながらはるか南の島の悲劇を思い起こしていた。ロンゲラップ島民は50数年を経てもなお島に戻っていない。

「これ以上、牛は殺さん!」

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 長谷川さんは3月12日から6月6日まで毎日、乳を搾っては捨てる作業を続けた。それは酪農家にとってむなしい、つらい作業であったに違いない。国や県の方針が出ないので先が見えない。牛乳は出荷できない。牛は移動できない。いろいろ考えた挙句、酪農家が集まって最終判断をした。移動制限がない子牛は外の育成牧場に避難させる、年をとった牛や妊娠していない成牛は屠畜場に送ることを決めた。それまでもいわゆる「廃牛」は屠畜場へ送ったことはあるものの、今回はそれが必要のない「さんざん世話になった思いのある牛」である。みんな泣きながらのやむをえない決断だった。牛が送られる日、東京生まれで飯舘に来て10年目の青年は泣いた。ある女性酪農家は「ごめんね、ごねんね」と叫びながら牛を見送ったという。
 牛舎がだんだん空っぽになっていく。そんなとき、長谷川さんは南相馬市の20キロ圏内で餓死している牛の映像を見た。それを見て決心した。「もうこれ以上、牛は殺さん!」と。しかも、いま残っている牛はおなかに子供がいる若い牛ばかりなのだ。
 長谷川さんは牛乳の放射能検査を繰り返しながら、国会などに移動制限解除を働きかけた。5月25日、3回目の検査で放射能が検出されず、3回とも基準以下だったので制限が解除された。それまでと異なり即日解除だった。長谷川さんはすぐに仲間に電話をかけた。喜びの声が返ってきた。
残った牛は福島県内の酪農家に引き取られた。いなくなるのは同じだが、屠畜場に行くのではない。牛を助けることができた。「会おうと思えばいつでも会える」と語る長谷川さんからは牛への愛情があふれているように思えた。預けてあった子牛は6月29日、せりにかけられた。「これで私たちの牛はすべていなくなった」と長谷川さんはさびしく言う。飯舘村から“酪農家”が消えた瞬間だった。
 悲しい出来事も多く起こった。6月10日、長谷川さんの友人でもある55歳の相馬市の酪農家が自ら命を絶った。「お世話になりました。」「私の限度を越しました。」「気力をなくしました。」「残念です。」「残った酪農家は原発に負けないでがんばってください。」などの言葉と7歳と5歳の子供を残して。「原発さえなければ」という言葉は線で囲ってあった。「避難の足手まといになる」と自死した102歳の老人など他にも原発事故の犠牲者はいる。長谷川さんは「まったく残念です。」と顔を曇らせた。

集団移住も検討すべき

 飯舘村の人たちは避難したあと何年して故郷の村に帰ることができるのだろうか。マーシャル諸島・ロンゲラップ島は、50年以上経ってから米国が表土を削り取り、家を建てて帰島を促している。スコールやサンゴ礁の地形からか予想以上に放射線量は低くなっているようだが、島の人たちは「ポイズン(毒:放射能)が残っている」となかなか帰らない。確かに、生活の支えとなるリーフ内や椰子の実を取る北の島にはまだ放射能が残っているかもしれない。目に見えない“猛毒”に一度汚染された地に戻るにはかなりの勇気と決断が必要なのだ。
 長谷川さんは「飯舘村は75%が山。そこの除染をやらないと生活レベルの汚染度は下がらない。」と指摘する。そして「ゼロにはならない。」とも言う。そういうところは子供を産み、育てる環境ではないから、たとえ自分は戻ったとしても子供や孫を戻すつもりはないと言う。そのときには、家族はバラバラになっても自分は故郷で一生を送るのか、村の外で家族が一つ屋根の下で暮らすのか、判断しなければならないだろう。しかし、それは一家族の問題だろうか。村全体で集団移住する方法も今からシミュレーションしておかなければならないと長谷川さんは考えている。後手後手に回っていてはだめだ。そういう確信があるからだ。「その決断はつらいだろうなあ」と長谷川さんはつぶやいた。
[ 2011/07/11 08:21 ] 渡辺幸重 | TB(-) | CM(-)


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