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夜間中学その日その日 (367)    白井 善吾

ミニ教研IN沖縄 (その②)  「いのち」と「命」と「生命」
                   
ミニ教研で私は「日教組教研理科教育分科会で論じていること」について報告した。大飯原発の運転差し止めをめぐる福井地裁の樋口判決と私たちが理科教育分科会で議論していることの共通点を示すため、判決文を引用しポイントを4点紹介した。

その3点目として、『何より、「いのち」が優先されることを「極めて多数の人の生存そのものにかかわる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている」』と報告した。
「極めて‥考えている」は判決文を引用したが、前段の『何より、「いのち」が優先されることを』は私の説明部分である。
 報告の後、山口幸夫(原子力資料情報室共同代表)さんから判決文は「いのち」とひらがな表記でしたかと質問を受けた。大阪に戻り確かめてみた。判決文には「生命」「命」はあるが「いのち」は用いていない。前段の『何より、「いのち」が優先されることを』は要約するための、私の言葉であり、説明である。この書き方だと判決文で用いられているように受け取られてしまう。重大な私の誤りであった。
 私は「生命」を(せいめい)と読んでほしくない時に、「生命」と書いて(いのち)とルビをふって用いることがある。それはこんな出来事が理由だ。私の用いた「せいめい」の意味について、中国から帰国したある夜間中学生から「せいめい」は「清明節」のことですかと質問を受けたことがある。中国では4月5日は「清明節」。先祖にお参りし、供養する大切な行事の日だ。この夜間中学生は私の言う「せいめい」の発音を聞いて、このように受け取っていたのだ。この時「生命」と書いて「いのち」とルビを書いた。

 「いのち」と「命」。同じか?異なることなのか?最首悟(元全国教研共同研究者)さんは「いのち」論をミニ教研で連続でお話しいただいている。その影響かもしれないが、私は特別な意味を込めて、「いのち」とひらがなが書きで、カギかっこをつけて記述することがある。うまく説明できないがこの二つは同じでないと考えている。
 「命」は生物が生きていること。「いのち」はその人の人生や生活そのものを含んだものではないか。命を基に「いのち」があるのだと考えている。

 ミニ教研福島で私の発表の後、山口さんから「国民」という語彙について質問を受けた。憲法には国民が多用されている。夜間中学では「国民」は使わないようにしている。使えないのだ。「市民」や「人民」を用いている。同じように教科名でも「国語」ではなく「日本語」を用いていると答えた。

 ミニ教研沖縄では山口さんから「人材」という語彙について提起があった。実は57次教研の時、私は山口さんから問いかけがあった。「ひと」をモノや資源と同列視する見方だ、用いる言葉ではないと思うと答えた。以後これらを乗り越える語彙はないのだろうか?と自問しているが見つかっていない。
 よく似た発音になるが「人才」(じんさい)しか浮かんでこない。ちなみに、「人材」は(Talented  person)。「人才」は(Person  ability)とある。

 沖縄ではお盆を旧暦で行う。今年の旧7月13日は8月8日。この日はウンケー(お迎え)、翌9日にナカヌヒー(中の日)、そして最終日8月10日にご先祖様を送る日としてウークイ(お送り)だ。ミニ教研二日目の夕方、沖縄の自主夜間中学・「珊瑚舎スコーレ」を訪れた。夜間中学生はお盆の準備で忙しくなることもあり、この日が前期の最終日であった。フィールドワークで沖縄県教組の山本委員長も話されていたが、正月に帰らなくても、お盆と清明節には顔をそろえないと、親せきからどのように言われるか。夜間中学生もその準備で忙しくなるとおっしゃっていた。
 中国大陸の習慣が色濃く残っている。この日、中国では通りのいたるところで、紙銭を燃やし先祖を送り出していた。そして旧暦の8月15日は中秋節で月餅を食べる。

 唯一の戦場となった沖縄、不発弾と亡骸の上に今の沖縄の街はある。天には飛行テストを繰り返しているオスプレイの低周波音が地上のすべてを震わし続けている。
3日目のフィールドワークで訪れた辺野古の海岸では立ち入りを禁ずるため、敷地境界に幅70センチのコンクリート基礎の上にフェンスを張り、海中まで一直線に境界を築いていた。なんと、この構築物を境に内と外で50センチ近くの高低差が生じていた。潮の変化で砂の流失が始まり、自然が目に見えて変化しているのだ。辺野古の海の生き物たちの怒りだ。


[ 2014/09/02 02:48 ] 夜間中学・白井 | TB(-) | CM(-)


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