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夜間中学その日その日 (343)   守口夜間中学 白井善吾

夜間中学のあゆみに見る「夜間中学の生命線」(2)
「先生、今日は声が小さいですね、元気出してもらわんと」、私の元気のないのを察知し、「元気がなかったら、学校全体が暗くなる」。教室の最前席からこのように声をかけていた。クラス全体の雰囲気を読み取って勇気づける発言をしていた。

その朴竒点が2月23日亡くなられた。最近写したというピンクのチョゴリがよく似合う遺影からそんな声が飛んできた気がした。もうすぐ米寿の祝いを受けるところだった。
印象的な出来事がある。夜間中学を訪問し一緒に夜間中学の授業を体験した高校生から届いた手紙の文章を読み終えて、竒点さんが「逆に私らが勇気づけられます。私たちが夜間中学でやっていることはすごいことなんですね」と発言した。それにみんなが頷いた。夜間中学生は義務教育の保障を受けているだけではない。夜間中学生は社会的に活動をし、それなりに役割を果たしているんだ。そんな矜持を竒点さんのこの言葉でみんなが再確認したのだ。
守口夜間中学を卒業後、あけぼの教室(守口市成人基礎学習講座)に通う途中、補食給食がない曜日に学校に立ち寄り、大きな鍋に作りたてのチャプチェ(朝鮮料理)が届けられることも何度かあった。

守口夜間中学の文集「まなび」に収録されている竒点さんの文章は10作品、9600字にもなる。改めて読み返してみた。
「学校は楽しくありません。朝鮮の子は私一人でした。一番いやなことは雨降りとお昼の時間です。雨降りは傘がないからです。お弁当のふたを開けるのが恥ずかしかったのです」(小学2年生のころ)。
父が48歳で亡くなり、「11歳の時、働くようになり、朝は7時から夜は9時までで、日給は25銭でした」「1943年16歳のころ、私は大阪野江のハンカチ工場で働いていました。大きな工場で、300人以上の人が働いていました。私は第3工場で軍隊用落下傘を縫う仕事についていました」
「隣のおばさんが『ここにいると危ないので福井の娘のところへ一緒に行こう』と言ってくれたので、母は考える余裕もなく、その日の夕方歩いて大阪駅まで行き、福井へ疎開しました」
「私は18歳で、石川県小松へ嫁に行きました。18といっても何もわからぬまま嫁ぎましたが、それが苦労の始まりでした」
「私は子どもの頃は引っ込み思案で口数の少ない子でした。結婚して以前よりも無口になりました」
「戦後厳しい生活の中で昼も夜も必死で働きながら子どもを育て、読み書きできないのを気にする余裕もありませんでした。子どもが成長して暮らしが多少楽になったころは、私はもう50を過ぎていました。70歳で夫に先立たれて初めて気づいたのは読み書きできなかったことです」「そんな頃に夜間中学に出会いました。それからの私はどこが無口やねんというくらい授業でおしゃべりになり、性格も明るくなり冗談も言えるので自分自身びっくりするくらい変わったと思います」
「入学して3年目に(近畿夜間中学校生徒会連合会の生徒会)役員になり、守口夜間中学創立30周年記念の集いの司会をすることになった」
「私には荷が重いのではないか心配でした。当日初めに生徒集会の劇、群読、八木節、朝鮮舞踊プチェチュム(扇の舞)、中国の田植え歌(ヤンガーウー)と続き、私はプチェに出ました。客席に孫が3人来ていました。まさか本当に来るとは思わなかったので驚きました」
2006年12月全国夜間中学研究大会に参加した。
「学校見学は髙野雅夫さんの母校荒川九中へ授業参観に行って『千江子の鐘』がどこにあるのか探しました。すると鐘が聞こえてきました」
そして就学援助補食給食の闘いを展開していた2009年度には次のように記されている。
「私は夜間中学に出会って、多くのことを学び、友だちとも出会い本当に幸せだと思います。世間知らずの私にも、少しは自信がつきました。夜間中学のおかげだと感謝しています。でも、今後の夜間中学校のことが心配です。夜間中学の役割を終えたとか、日本語だけを教える場所ではないという人がいますが、それは間違っていると思います。読み書きできないことがどんなに辛いことか分からないから言えるのだと思います。私は字が読めなくて苦労し、いつも引け目を感じ、嫌な思いをしてきました。やっと夜間中学に出会い、少しずつ文字を覚えて、自分の名前や住所が書けた時、どれほど嬉しく思ったか、こんな気持ちは分からないと思います。私たちは若くないので、若い人と違って何倍も覚えが遅いのです。戦争や貧しさで学校へ行けなかった分を、いま夜間中学で学びを取り戻しているのです。夜間中学は、いろいろな意味で、なくてはならない学校です。私は夜間中学で勇気と自信がつきました。まだまだ夜間中学で学びを取り戻したい人は大勢います。その人たちのためにも夜間中学を守っていかなければならないと思います」

授業中、こみあげてくる学ぶ喜びを夜間中学生はよくこんな会話で表現する。「あの世にいったら、夜間中学をつくって待ってるからセンセも来てください」「字が書けなんだオモニも来てもろて、みんなで一緒に、勉強します」。こんな会話にも的確な合いの手を入れ、場の雰囲気を明るく、変えることのできる人であった。
[ 2014/02/28 23:45 ] 夜間中学・白井 | TB(-) | CM(-)


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