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奈良おんな物語《35》「NPO法人・子どもの人権総合研究所理事長―白須洋子」下:鄭容順

NPO法人 子どもの人権総合研究所  理事長
2004年 成立
子ども達の健全な成長と人権の確立のため、子育て支援事業やカウンセリング事業を行っている。その一つとして、市からの要請を受け、約5年間0才~3才までの子どもとお母さんの“つどいの広場”に我が家を開放した。核家族と少子化に対する国の施策だった。


ハンセン入園者との交流
橿原市の「かけはしの会」(ハンセン入園者と交流している会)の田中魁さん(故人)が岡山県の長島愛生園(ハンセン療養所)に行かれるのに誘っていただいた。元同僚の植松利晴先生もご一緒だった。1995年「らい予防法」が廃止になる前年のことである。そこで宮崎さん御夫婦と会い、現在まで交流が続いている。奈良へもお招きした。

絵本ギャラリー          
奈良子どもの本連絡会として参加
2000年
「第32回全国学校図書館研究大会」が奈良で開かれる。その関連行事として、“絵本ギャラリー in 奈良”の第1回目を奈良教育大で開催し、今年第15回目を迎える。“子ども達に絵本を”と云う思いの中で、“作家の講演”や“子ども達への読みきかせ”など色々盛り込まれ、毎年1万人以上の人の集いになっている。
私の所属している奈良市の理科の教師達で直径1mくらいのシャボン玉とばしを毎年やって来た。

三匹のこぶた

きんぎよが逃げた

NPO法人学校図書館木質・活性化支援センター  理事
2013年8月発足した。奈良県の森林を育てる為には、間伐が必要である。ところが安い外材に押され、間伐した木材が利用されない。そこで森林組合と製材会社、学校図書館研究会が手を握り、間伐した木材で県下の小中学校の図書室を木材化する運動がはじまった。
第1回イベントを大和郡山のイオンで、第2回目を橿原イオンで行われた。

本立て

エッセイ「平城宮跡の散歩」       奈良新聞掲載
自宅は西大寺駅から歩いて15分程度、西大寺駅近くに出て近くにある平城宮跡に歩いて向かう。往復して8千歩という。友人と一緒に何も話さないで黙々と歩く。平城宮跡に着くと季節の移り変わりを実感している。
その時の様子が1つの文章にまとめられていた。平城宮跡でのことを書いているので紹介。

『平城宮跡で日の出を』
―今日も午前6時、平城宮跡に向かって家を出た。
近くに住む友人と! 東に連なる春日の山並み。その一隅から「キラッ!」と光る日の出を見るために・・・。「今日はあそこかな」と息をひそめ、その瞬間をまばたきもせずに待つ。毎日、毎日、空の様子は違う。山の上全体が赤くなり、一点が金色に輝く瞬間、「あそこや!きれい!」と声を出したしまう感激。「あの雲なかったらいいのに・・・」とうらめしく雲をにら日。あきらめていたのに雲の中の切れ目から光を放つ太陽。私たちは大空を見上げ、その日の天気を考える。夏至を迎える日から、日の出の位置は少しずつ南に移動し、冬至からは北へと移っていく。そして日の出の時刻も午前4時半ごろから6時半ごろへと北半球では1年間に2時間の差がある。夏の1日は長く、冬は短いのである。「1300年前の大宮人もここで太陽を眺めていたにちがいない」と、宮跡の中に立ち、朱雀門を南に大極殿を北に見ながら思いを馳せる。電車が走っていても違和感がさほどない。それよりも地球と太陽と宇宙を身近に感じ、大宮人とも心が通う気がするのである。
太陽がまん丸になるのを見届けて私たちの足は家路へ・・・。今度は白いもやに包まれた広い草原を見渡し、足元の草花に目を止める。赤や白、青色の名も知らない花の群れ。小鳥がさえずり、道の両側に植えられた木々。これらも季節感を感じさせてくれる。今日はどんぐりを踏み、金木犀の香りに包まれて宮跡を後にした。
“平城宮跡での日の出を”という思いで歩き始めてもうすぐ3年を迎えようとしている。雨の日以外はほとんど毎朝。おしゃべりはしない。足の親指に力を入れて大股で万歩計を手に。ちなみに今日は8600歩。途中に出会う人々とは会釈を交わして。“あとしばらく健康で歩けますように”と祈りながら―

「『奈良おんな物語』記述に際して=鄭容順」
<この原稿「奈良おんな物語」は2011年1月から掲載して4年目を迎えて35人を画面構築してきた。取材要請をして日程を取ってお会いして2時間程度の取材、取材者の半世紀を2時間前後の取材で原稿にすることは大変おこがましいことと承知している。それでも画面構築をしていく。これまで仕事を持ちながらもこのコーナーの原稿作成も精力的にこなしてきた。多忙な中でも時間を取っての取材活動、ボランテイア活動の一環です。インタビューする人もされるほうも活動家、双方、時間を取ることが困難な状況でもご協力してもらった。後は活動の要点をインターネットなどで検索して取り出した資料を織り交ぜて記述していく。これは最初の職場、「月刊奈良」編集局で学んだ原稿作成の仕方だった。当時、パソコン機器はなく資料調べは図書館または自腹で著書の購入だった。こうした物書きは自分の主観を入れることはできない。そして文書は名称を入れて資料で文章を膨らましていく。どうしても3人称の書き方になる。雑誌記事でも新聞記事でも取材した人に対しての文書は「私」という書き方を絶対にしない。ありのままにその人の言葉を記述する場合は質問・回答という紙面作成にしていく。また対談や鼎談という形で紙面構成をする。
「奈良おんな物語」の原稿は質問・回答という書き方になると「物語」に相応しくない。3年間、3人称の書き方でしてきた。それぞれの取材対象者は長い原稿のゲラを丁寧に見て下ってありがたく感謝して画面構築をしてきた。このコーナーの書き手は鄭容順です。投稿原稿や寄稿原稿を整理した原稿を画面構築していない。短い時間の取材にしてもまた能力不足があったとしても鄭容順がインタビユーして原稿を作成している領域をきちんと把握してもらいたいものだ。今後この意味を理解してもらいたい。自分が著書出版や自分の文書で投稿するときは「私」でもよい。小説なら「私小説」という>

―白須さんとの出会い―
鄭容順の筆者、記憶の途切れに多少ショックを受けている。白須洋子さんとは2011年10月29日、奈良ロイヤルホテルで会っている。奈良新聞社の65周年記念式典の会場だった。マリンバ奏者の松本真理子さんの紹介だった。それから昨年「奈良おんな物語」で紹介した栗田妙子さんから何度も白須洋子さんの名前を聞きながら会ったことがないが新聞記事などで何度か名前は見た記憶があった。そして今年の1月25日、自宅を訪問して取材、それでもまだ気がつかない。自宅に戻ってもしやと思った。
そして名刺台帳を繰っていくと「白須洋子」さんの名刺があった。奈良新聞社での祝賀記念会で名刺交換をしていた。まだ2年しか経っていない。忘れていることにこれも高齢の始まりと思って受けとめている。
26年間、奈良の地元のことには目もくれず在日韓国人の中を駆け巡った。大阪、京都、神戸、奈良、滋賀などと韓国や在日コリアンに関係する人にあって取材活動をしてきた。
時には新幹線を利用して遠く中国地方や九州などの出張の現場もあった。その間に奈良県の女性たちの活動が様々に変わっていた。「絵本ギャラリーin奈良」を新聞記事で見ながらも、日夜、現場と原稿作成に追われてその合間に主婦もしていく。仕事優先の生活は奈良で活動する女性たちと距離ができていた。
仕事をやめて奈良の地でしっかり根をおろすようになってくると、私が地元の雑誌記者・編集者をしていたころとは違う活動、老若男女問わずに活発な活動グループが出来ていた。
私とあまり変わらない女性たち、いやそれよりにも年輩の女性たち、子育てが一段落すると自分の特技を生かして町の中で活動している。女性たちの活動、時代とともに駆け足で変化していた。個々の人生は地に足をつけてしっかりと歩んでこられた。女性差別撤廃の雄叫びが遠くになりつつある。筆者が雑誌記者をしていた頃、女性たちの雄叫び、女性たちの地位向上の要求が活発になった。
白須洋子さんもそうです。両親の愛情たっぷりと育った。戦中という時代も親は子どもと正面に向き合ってこられたことの愛情深さ、1つ1つの物事に真剣に取り組んでこられた様子に親のあり方を思った。教職員時代はそうした親の背中から学んだものがすっかりと白須洋子さんにとりこまれている。自分が両親や周りの人から受けた愛情を今度はまた次世代の子どもたちにつないでいる。働く女性たちの負担を少しでも軽くして子どもたちには1つでも多く話して心を繋ぐことにしている。
白須洋子さんのご両親ほどではなかったが私も父親から受けた影響は大きい。
物心つくと父は「本を読むように」といわれていた。父親は京都の会社に勤務する勤め人だった。通勤する近くの本屋さんで見つけたのだろうか。小学校4年か5年か記憶は定かではないがまっさらのピカピカの雑誌「少女」を買ってきた。それを私に渡した。父親からお土産としてもらったのは後にも先にもこれだけだった。ピカピカの雑誌を宝物のように1枚1枚とページを開いて読み物を読んだ。それから本が好きになった。
中学生になると近所の貸本屋さんで、本を借りて読んでいた。会話の出来なかった私、図書館に行く智恵は思い浮かばなかった。高校に入ると貸本屋さんで借りた小説も多かった。
社会人になって雑誌「婦人公論」が好きで読み物が一杯でこれを読んでいる時は至福の時間だった。最近の「婦人公論」は昔と少し内容がかわったことと私の読み物もかわった。今は手に持ちやすくてそう重くない文庫本に変わった。昔の文学作家もまた読み直し、今話題の著書も読んでいる。
白須洋子さんの取材を通して自分の子育てははたして大丈夫だったのかと、反省することばかりだった。その昔、奈良近郊から移り住んだ現在70代、80代の女性たち、お母さんの声をあげて従来の奈良という慣習を1つ1つ取り除いたのが奈良市西部に位置する新興住宅開発地域の女性たち、新しい形の婦人活動の先駆者だった。この文面を記述している鄭容順、筆者は結婚して子どもが生まれていたがまだ幼稚園にも行かない頃だった。PTA活動する頃、昔の地域の慣習は取り払われていくが少なくとも住んでいた地域はまだ昔のしきたりが多く残っていた。奈良市西部地域から東に向かって学校運営のあり方の過度期だった。西部地域から少しずつと改善されていった。最初は白須洋子さんがかかわった学校と保護者たちだった。これまで奈良県の女性たちの活動を活発にしてこられた知人・友人たちの活動の原点はPTA活動からだったと認識、1人1人の顔を思い浮かべながら時代の変遷をたどっていた>

<写真説明>1NPO法人学校図書館木質・活性化支援センターで取り組み木質を生かす活動の1つ、本立てにも活用している。2保育園などに大型絵本を持参して絵本の読み聞かせをする白須洋子さん、この絵本は『三びきのこぶた』です。3 『きんぎょが 逃げた』の大型絵本、絵本の1ページ1ページを開いてどこかに金魚がいる。それを探し出す子どもたちの瞳はキラキラしている。

[ 2014/03/01 05:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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