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奈良おんな物語《35》「NPO法人・子どもの人権総合研究所理事長―白須洋子」上:鄭容順

「冒頭」
筆者の鄭容順は白須洋子さんの自宅を訪問してインタビユー取材をした。原稿を作成してゲラの校正を要請したところ、白須洋子さんの原稿作成が1人称書きが希望だった。筆者は資料をインターネットなどから収集、収集した資料を織り交ぜての原稿作成が意に添わない。そこで白須洋子さんが文書を新たに作成、作成したものを今回の「奈良おんな物語」として紹介をしていく。


「プロフィール」
1933年(昭和8年)奈良市で生まれる。
教師だった父と助産婦だった母に育てられ、市内の育英高校を卒業して栄養士を目指し、京都女子大(短期)に入学し中学校の家庭と保健の教職免許を取得する。


白須洋子さん

卒業後は大和郡山の治道小学校の事務職から県費教員となり、奈良県内の小学校中学校に約40年間勤務。
退職後は「奈良子どもの本連絡会」の活動に参加して代表も務めた。その後「絵本ギャラリーin奈良」の運営に取り組み「NPO法人子どもの人権総合研究所理事長」「NPO法人学校図書館木質・活性化支援センター」の理事も務める。又「読書」「人権」をテーマに各地で公演活動も行っている。
2001年には「奈良こどもの本連絡会」の活動で奈良新聞社から「第6回奈良新聞文化賞」またその年に国際ソロプチミスト奈良平成支部から「社会ボランティア賞」を受賞した。
奈良新聞社から著書「おこちゃんが語る 生きるってすごい」を2008年に出版している。

- 子どもの頃 -
母は助産婦で自宅分娩が普通だった当時、子どもの出産に立ち会っていた。医者と違い分娩費を請求できない産婆は、お礼が収入だった。
貧しくても出産せざるを得ない当時、御礼を渡せない家もあった。赤子の行水のお湯を沸かす薪すらなく割木を持たされて母の後をついて行った事もあり、はぎれを縫い合わせて「よだれかけ」や「腹当て」「スモック」等を縫って配っていた母、布のおしめの破れたものを貰って来て3枚で1枚を・・・と。家にいる時はミシンの前に座っていた母。
父は市内の私立育英学園の創立当初から教師で、数学と理科を教えていた。私は父が大好きで尊敬もしていた。当時県立の教員になる為には「へき地教育3年」と言われ、3年間吉野や宇陀の山間の学校に行くことが義務づけられていた。父と3年間離れて暮らすのは私の人生でもったいないと受験しなかった程だ。

日常生活の中で、自然から色々教えられた。教員生活の中で約15年間学校の飼育を担当した事や理科の先生のグループに所属した事も関係があると思われる。

「おこちゃんが語る から抜粋」 
『蝉の羽化』
一家が奈良公園に近かったことから子どものころ、蝉やヤゴ。大きいコオロギを捕りに男の子とよく公園に行った。ある日、アブラ蝉の幼虫をいくつか持って帰った。「どうしたらいいですか?」と父にたずねると父は、「ハンカチの上に乗せて洋子のタンスの引き出しに入れておきなさい」と言った。私はタンスの引き出しに入れたが気になって何回もそっとのぞいている。どれくらいの時間が経ったのか、一匹の幼虫の背中がわれていた。さっそく父に連絡。父はわかっていたのか驚きもせず「白いハンカチの上に乗せてここへ持って来なさい」と言った。私が言われた通りに持っていくと父は電灯を下に降ろし、明るい光をパッと当てた。蝉の背中は大きく切れ足をもぞもぞさせ、1本1本殻から抜いていく。6本の足がうまく殻から外に出る。羽根はくしゃくしゃで透明、少し草色をしていた。頭も抜き殻を踏んづけて羽根を少しずつ伸ばしていく。だんだん蝉の形になってきた。私はドキドキしながら蝉の誕生を見つめていた。電灯を太陽と思った蝉の羽化は無事終えた。外ではなかなか見ることの出来ない一部始終を見た私の興奮は60年経った今も昨日のことのように甦ってくる。

『雷』 
私が子どものころ、開化天皇陵近くの自宅の2階からは東に春日連山、西に生駒山脈が見えた。小学校に入学したころ電話局が建ち若草山の山焼きが家から見られなくなり腹立たしく思ったことを覚えている。
夏のある日、夕立が来て雷が鳴り出した。子どものころに近くの家に雷が落ち、その家が焼けて人が亡くなったという思い出を持つ母は、いつものように蚊帳を吊って布団をかぶり震えている。そんな母を黙って見ていた父は突然私を2階に連れて行き東の窓も西の窓も全部開け放ち稲光りを見せた。
「そら!きれいやろ」と言って黄色に折れ曲がる光りの矢を指さしたのだった。
「また光るぞ、しっかり見て」と。ふと気付くと私の中の恐怖心はなくなり光りの美しさを瞬きもせず待っていたのだ。そのうち父は「光ってからゴロゴロと鳴るまでいくつか数えてみよう」と言った。
ピカ! 「1つ、2つ、3つ」ゴロゴロ!「今のは3つやったな。今度いくつかな」ピカ!「1つ、2つ、3つ、4つ、5つ」ゴロゴロ!時間が経って鳴る音は少しずつ小さくなっていく。父は私にそれを気付かせたかったらしい。次の時には懐中時計を指し秒針の動きと音を比べさせた。私に恐怖心を抱かせないこと。光りと音が同じ所で発生していながら、その伝わる速さの違いで少し遅れて音が鳴ること、遠くで発生した雷の音は光ってから鳴るまでの時間が長く、小さく聞こえることなどを知らぬ間に私に教えていた。
 小学校高学年の理科で光りの速さを学習した時、私は幼い日のことを思い出した。今でも雷が鳴ると懐かしさが込み上げてくる。

- 勤めに出て -
治道小学校

昭和30年9月大和郡山市の治道小学校の事務職員として勤務、教頭先生が担任しておられた2年生B組の副担任になる。そのクラスに今県内外で活躍しているマリンバの奏者、松本真理子さんがいた。おしゃまで世話好きで成績も良い可愛い子だった。「まりちゃん」との出会いはこの時である。

〈当時の思い出を1つ〉
未だ、テレビもなく学校の体育館で映画を見ることが唯一の楽しみだった当時。治道のような小さな学校には映写機は来なくて、郡山小学校の体育館に筒井小、平和小、治道小の子ども達はあぜ道を往復歩いて行くのである。
治道からは片道1時間かかった。それでも子ども達は、うれしくて学期に1回のその日を楽しみにしていた。
私が赴任して1週間目、その日が来た。私は「明日映画やなぁ。うれしいなぁ!!」と言った。みんなは「きゃぁ!!」と叫んだ。ところが唯一1人だまってうつむいている。小児麻痺で早く歩けない。
「とっちゃんは明日どうするの?」という私の問いに「とっちゃんは学校でお留守番」・・・と。先生心配しなくてもいいという気持ちで子ども達は叫んだ。
障害児教育が今ほど進んでいなかった当時、家が近いから学校へは来ていたが・・・
「あんたらそんなに喜んでいるのに、とっちゃんはお留守番って、そんな可哀相なことでけへんや~」と私は言ってしまった。
すると1人の男の子が、
「先生明日、子どもの自転車学校へ持って来ていいですか?」・・・と。
「自転車持って来てどうするの?」・・・と、私。
「それにとっちゃんの乗せて右のハンドル1人、左のハンドル1人、後の荷台1人。3人組んどいて途中で交代したら連れて行けるで・・・」と。
私は教頭先生に話し、承諾を得た。私はついては行けなかった。
それから40年後のある日、1人の男の人から白須の家に電話があった。
「岡島先生やな。(私の旧姓)ぼく、とっちゃん・・・。同窓会するから来て!!」と。
電話帳で岡島を探して私の実家に行ったらしい。母から白須の電話番号を聞いてかけたと言う。
そして同窓会当日。幹事としてまりちゃんが挨拶をし、マイクを彼に・・・。
彼は私の前に来るなり、
「先生、映画に連れて行ってくれてありがとう!!」と。
その場に泣きくずれた。他のみんなも涙ぐんだ。彼は自分の席から白い封筒を持って来て、「これをもらって」と、私に差し出した。「開けてみ」と言う。
中には商品券が入っていた。
「ぼくが作業所で働いてもらったお金で買った。親からもらったんとちがうね」と言う。
先生に御礼がしたかった。でも先生が何やったら喜んでくれるかわからへんかった。何かほしいもの、これで買ってと、また泣いている。
私は岩波の広辞苑を買った。今も使っている。


大和郡山市立治道小学校の勤務を2年で終え、県養護教員を受験し、吉野郡大淀町立大淀第二小学校に養護教諭として勤務することになる。

自宅があった奈良市三条町から、近鉄電車で西大寺に出て橿原に出、吉野線に乗り換えて通勤ができた。
1年の勤務の後、橿原市立晩成小学校に。養護教諭として勤務をした後、1964年(昭和39年)、奈良県生駒郡安堵町立安堵中学に転勤してようやく家庭と保健の教諭生活が始まった。
1968年(昭和43年)奈良市内の中学校への転勤希望を出した。しかし中学校では教科での欠員がないと入れない。まず小学校に籍をおいて後に中学校に欠員が出来たときに転勤せよと言われて奈良市立鶴舞小学校に行くことになった。学園前が開発され大阪万博などで転入者が多く、創立3年目の学校は児童数が千人を超えていた。児童を受け入れる教室もなく図書室や音楽室なども普通教室になり、体育館も区切って教室にしていた。その後、鶴舞西に小学校が新設され、青和小学校が開校される。私はその年青和小学校に転勤をした。青和小学校の校名は「青丹よし」の青と「大和」の「和」を取って付けられた。この奈良市立青和小学校に10年勤務しこの後、富雄南小学校で10年1955年(昭和30年)から1994年(平成6年)まで、約40年の教員生活を送った。

<写真説明>2014年1月25日、白須洋子さんの自宅を訪問、筆者のインタピューに答えて下さる白須洋子さんです。

[ 2014/02/25 16:54 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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