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(新)双方向版 蛇行社通信 1月号より; 吉田智弥

吉田智弥さんが発行する(新)双方向版『 蛇行社通信』1月号からの転載です。 *******************************************************************************
  「新しい」運動論を?----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
 12月21日、多文化共生フォーラムが主宰する自由学校「ミアコーロ」から、「新しい運動論の提起」というテーマが与えられた。 いまの状況が行き詰まっているので、「どないしたらエエのか。何でもエエから喋れ」という依頼である。引き受けた側のエエ加減さは、お互いに承知の上。


秘密保護法も強行採決されて、「これからの日本はどうなるのか」という心配は誰にもある。だが、よく考えてみれば、近現代史だけを見ても、現在より悪い状況は幾らでもあった。そこで闘い続けてきた人たちがいたから、今の私たちがあるだろう。

井上ひさしさんは『組曲虐殺』という芝居の中で、小林多喜二役の青年に「あとに続く者を信じて走れ」と歌わせたが、私たちもまた、彼の「あとに続いて」走ってきたのである。曲がりなりにも、バトンリレーは続いてきた。だが何のために?

邪悪な権力者たちに一日も早く舞台から降りてもらって、当たり前に生きる民衆が主役になるような社会をつくるためである。しかし、だいたい権力者というものは、そう簡単に自から監督・主演の脚本を手放さないですよ。ましてや今の「主役」は。
 
40年ほど前に、高橋和巳は小説「日本の悪霊」の主人公に「権力は一体どこにあるのか」と自問させたが、自答で描かれた権力者の像は、「刃向かう者を仮借なくうちのめし一切の批判を峻拒して神のようにのし歩く」(新潮文庫223頁)存在である。それを幾らか戯画化すれば、現首相に似ていないこともない。今の世の中に不安を抱く人たちほど強権にすり寄って、彼の「人気」を支え、当人と周辺に勘違いが広がる。

その点でいえば、民主党の三人の宰相たちは、政権には就いたけれど、良くも悪くも、権力を奪取したわけではなかった。国家機構の中では四面楚歌であっただろう。

 リアリズム政治の原理からいえば、「国家」を媒介することなしに、民主的な世の中をつくることは不可能である。だが、国家としての国家は、文字通りの意味で〈民主的〉であることはできない。民主党はこの逆説に鈍感すぎた。結果として、権力の本体の一つである原子力村に赤児の手をねじるように倒されてしまった。

 今日、グローバリズムに抵抗する担い手として「マルチチュード」(「99%」の群衆)を見いだした稀代の理論家でさえ、転換期に求められている「対抗権力」の中身については「満足のいく答えを持ち合わせていない」と告白している(アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート『叛逆/マルチチュードの民主主義宣言』NHK出版110頁)。 

ところが、同じ著者たちの別の本(『<帝国>』以文社)では、有名なフォークシンガーの歌詞の一節が引かれている。「道具なら何だって武器になるのよ。構え方さえ間違わなければね」(アーニー・デイフランコ)。要はやる気の問題だというのである。いかに状況が悪くても、問題は、あなたや私が、志を持ち続けるかどうかだと。
[ 2014/01/13 23:18 ] 寄稿 | TB(-) | CM(-)


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