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奈良おんな物語《34》「保育士・子どもと一緒に生きて・粟田妙子」下:鄭容順

「活動・ブックをスタート」
奈良保育学院で講師として授業しながらも、子どもにかかわることをしたいという気持ちが強く「ブックスタート」に取り組んだ。


粟田妙子さん

「赤ちゃんに笑顔」という合言葉のもとにグループ「ゆりかご」を発足、その事業の1つが「絵本ギャラリーin奈良」での「赤ちゃん絵本の部屋」の担当だった。「絵本ギャラリーin奈良」は、2001年に奈良教育大学を会場に第1回が開催されてから毎年、夏休に開催され、2013年の今年は会場を奈良市中部公民館に移して14回目を迎えた。このイベントで子育てしている母親、または子育てを終えた中高年、体験を踏まえてアドバイスやサポートをする高齢者などの人々が集まって、多くの人との出会い絵本との出会いを楽しんでいる。第1回目の「絵本ギャラリーin奈良」の「赤ちゃん絵本の部屋」の担当は当時は、3回目からした時代に即したもので「奈良子供の本連絡会」の会長だった。

絵本ギャラリーin奈良

「活動・子育て支援」
全国的な活動として「子育て支援」がある。各市町村が保育園にも幼稚園にも行けず核家族で育った親たちが、互いに子育ての悩みや喜びを語り合える広場の提供です。
粟田妙子さんはこの支援を「屋根のある公園」と表現する。
家に篭っている母子を外に引き出していく。建物も木製が減りコンクリートマンションが多い昨今、ドアを閉めればお母さんと赤ちゃんの2人の密室、外に出てほしい、外に出て声を出さないといけない・・・声を出し絵本ギャラリーや子育て支援の広場で出会った人たちに話しかけ交流をしてほしい。核家族で子育ての相談相手がいないお母さんに、「ママ友」ができ子育ての悩みを分かち合い喜びを確認し合える広場、公園にしたいと日々お付き合いをしている。

粟田妙子さんも春日公民館に1回、中央公民館で月1回の活動している。
「公民館には0歳から1歳までの第1子の子どもを持つお母さんの参加呼びかける企画もあり、中にはご主人も一緒に来られます。親子での絵本の読み聞かせ、またプールなどの水遊びなど遊びの仕方と工夫を教えていきます。健康相談もしています。赤ちゃんの音の出会いも大切です。騒がしい音の中で育てるより静かな音楽の中で子育て、情操教育としてとても赤ちゃんには大切なことです。また近年のお母さんは生まれて間もない赤ちゃんにも黒や真っ赤な服を着せたりしますがこれはあまりよくない。刺激の激しい色なので相応しくない。ずっとこの色が赤ちゃんの脳裏に残っていくのです。強烈な色はこれから育つうぶな赤ちゃんにはよくないです。
赤ちゃんや子どもの服はやさしい色、ふんわりしたパステルカラーなど淡い色をみせていくことです。こうしたことが成長に影響していくんのです。淡い色で赤ちゃんの認識になっていく。赤ちゃんの服、昔から淡いピンクや黄色の色をよく使っていることに意味があります。
また子どもに子守唄を歌う。子守唄はゆっくりと優しい唄です。子どもが鳴いてゆっくりゆすると泣きやみます。ゆっくりとリズムをつけてゆすると静かになっていく。だから子守唄を歌う。また赤ちゃんの肌ざわりも大事です。それが産着です。やわらかい布を使った肌着も生まれてから赤ちゃんの着るものにも意味があるのです。
子育ての中で『色』『リズム』『音』そして『肌触り』、生まれてから何に触れて何を見ていくのか。子どもの成長に影響してきます。
テレビもよくないのです。昔、主婦連はテレビが普及して、テレビの音が子育てによくないといって運動していたのです。だから学校近くの映画館なども反対の対象になっているのです。赤ちゃんの道、人間になっていく道、わらべうたも一緒になって歌う。歌を歌って話していくのがわらべうたです。そして子どものつながりを作っていくのです」と、話す粟田妙子さん。

「活動・子育て支援」
全国的な活動として「子育て支援」がある。各市町村が保育園にも幼稚園にも行けず核家族で育った親たちが、互いに子育ての悩みや喜びを語り合える広場の提供です。
粟田妙子さんはこの支援を「屋根のある公園」と表現する。
家に篭っている母子を外に引き出していく。建物も木製が減りコンクリートマンションが多い昨今、ドアを閉めればお母さんと赤ちゃんの2人の密室、外に出てほしい、外に出て声を出さないといけない・・・声を出し絵本ギャラリーや子育て支援の広場で出会った人たちに話しかけ交流をしてほしい。核家族で子育ての相談相手がいないお母さんに、「ママ友」ができ子育ての悩みを分かち合い喜びを確認し合える広場、公園にしたいと日々お付き合いをしている。

国鉄奈良駅

大宮通

近鉄奈良駅

奈良市生涯学習財団・白須さんの紹介
奈良市生涯財団

「奈良の民話を語る会」(愛称:ナーミン)
粟田妙子さんは「奈良の民話を語りつぐ会」にも所属して活動している。
この会は奈良教育大学名誉教授の竹原威滋先生が代表で、奈良に伝わる民話を多くの人に聞いて頂き楽しんでもらうための「奈良民話祭り」や「民話おはなし会」を行っている。共通語でなく語り手の自然の言葉でお話するナーミンの語りは、奈良っ子の粟田妙子さんにぴったりである。
ナーミンの活動と並行して元筑波大学名誉教授の小澤俊夫さんの「小澤昔はなし大学」の再話研究会にも所属、昔話についての勉強も深めていっている。

「雑記帳の集いの出会い」
粟田妙子さんは「保育士をしているとき、私的にイベント企画をした。そのときの様子を写真とメモを当時の奈良新聞のデスクに渡すとそれを記事にして下さった。そのメモがよく出来ていた。奈良新聞の紙面の1つ「雑記帳」の投稿を勧められ、投稿を機会に「雑記帳の集い」のペングループを知って入会しました」と、「雑記帳の集い」の入会の縁を話す。
同集いで冊子の編集などにかかわり運営に協力、現在も会員で会合の活性化に努めている。

編集会議

「粟田妙子さんの回顧」
筆者が粟田妙子さんから聞いた話で印象に残った話を記述、奈良保育学院で授業をしているときの教え子と後年に出あうことがあった。案内のちらしを配っていた人が粟田妙子さんの自宅にこられた。出て応対にしたのが粟田妙子さん。そのときその教え子が粟田妙子さんの授業を良く覚えておられた。子どもの頃に聞いた親の絵本の読み聞かせ、学生のときに親のことを再確認してそれがとても大切なことだと気がついて絵本のよさがわかったことを話され教え子から聞く話に感動したこと。
また、奈良町の奈良物語館では「燈花絵」に合わして、帳がおりて、灯火のともる明りの中で奈良の民話を語り継いでいく活動をしている。
子どもが多く来るので夕方7時に終るようにしてのイベントだという。
粟田妙子さんは小学校6年の時、地域の地蔵盆で子どもたちのまとめ役をして遊びなどのプログラムも作ったという。「子どもとかかわるという下地はこの頃に芽生えていたのかもしれない」と話す粟田妙子さん。

「筆者の感想」
粟田妙子さんが「雑記帳の集い」に参加される頃の筆者は「月刊奈良」編集局から在日韓国人の新聞社に転職、日刊紙で大阪・奈良・京都・滋賀・和歌山などの現場を奔走していた。「雑記帳の集い」に顔を出すこともなくなった。
奈良新聞の紙面で見る「雑記帳の集い」の1年に1回の総会で決まった役員の名前で粟田妙子さんを知っている程度だった。1度、電車の中でお会いしているというが筆者はすっかり記憶から途切れていた。
ただ保育園の保育士をしておられたことは耳にしていた。定年退職後は晴耕雨読の生活と思っていた。それが今年の奈良で開かれた「絵本ギャラリーin奈良」のニユースを新聞で見ることになってその紙面で粟田妙子さんの活動を知ることになった。「絵本ギヤラリーin奈良」は奈良で回数を重ねて開かれているのに、現場、現場という仕事の中で関心があっても覗くことはなかった。今年の「絵本ギャラリーin奈良」は覗きたいと思って会期に注意を払っていた。それが今夏の猛暑、外を出歩くことを躊躇したので行きそびれた。それでも粟田妙子さんの活動はずっと頭の隅に残っていた。そして取材ということでお会いすることになった。
定年退職後は「子どもとかかわる活動をしたい」という思いを持って地道に活動を続けてこられた。絵本と赤ちゃんの関係、絵本とお母さんとのコミニユケーション、赤ちゃんと色彩と音のこだわりにも触れて昔から日本の家庭で育まれてきた智恵や認識、理由があってのことに筆者がなるほどそういうことだったのかと再認識をした。
そこで思う。
粟田妙子さんがおっしゃった言葉、「日本が戦争に負けてアメリカに占領された日本人はアメリカという国の文化にすっかりはまってしまい、日本で長いこと培われた文化や祭事など核家族の増加で崩れていった」と。
日本人はアメリカ文化に翻弄され、そうしたものが日本社会で根付いた。日本の大事な文化や伝統、言い伝えられてきたことが崩れてしまった。
粟田妙子さんは激しい電子音のでる中で育ち強烈な色彩で育った子どもたちの成長を案じられた。日本に住む人たちは何をしなければならないのか。
地域社会での人のつながりを大切にして地域に残る催事や祭事を見つめなおして活性化して保存していく。これは地域ぐるみでしないとできない。ここからまた新たな国際交流が生まれて日本文化の保存につながっていく。
その実践をしているのが粟田妙子さんを含めて奈良で活動する子どもと母親たちです。体験したことや学んだ智恵を惜しみなく後継者に伝えていく活動をしている。奈良町界隈にある奈良市音声館、奈良町物語館などさまざまな活動している建物に大事な意味があって作られて活動している実態を粟田妙子さんの話を聞いて知ることになった。
保育士という子どもとかかわった体験は多く引き出し幾つも持ち合わせている。
専門家が集まっての活動、さらに奈良は子どもの集いを活性化してくれると期待している。
また筆者より4歳年上だが子どもの頃の記憶をよく覚えておられた。日本の敗戦後の記憶、粟田妙子さんの記憶は後世に伝えなければいけないと考えて子どもの頃の記憶をここに多く記述をした。
粟田妙子さん、子どもたちや若いお母さんからエネルギーやパワーを頂いているのかとても元気でパワフルだった。若さの秘訣はここにあるのだろう。
筆者も絵本と向き合って素直な目で物事を見なければならないとまた胸に染みた。
結婚して子育てをして保育士の仕事、夫と助け合ってきた。粟田妙子さんは保育士で自分の子どもは元興寺極楽坊に預けて働いてきた。自分の子どもには十分なことはできなかったといいながら、子どもの誕生日会は手作りの工作をしてそれを持たせて帰るという発想豊かな誕生日会、さすが保育園の先生と感心した筆者だった。
今回のゲラの校正に際して保育士・絵本ギャラリーin奈良などの活動に丁寧に校正をして下さった。心から感謝をしています。20年と少し、奈良を離れて関西の在日コリアンの中を現場取材してきたことから奈良の活動事業はまったく勉強不足だった。勉強不足の原稿を丁寧に修正して下さった粟田妙子さんの優しさが伝わってきた。うぶな赤ちゃんの育て方になるほどと思い子育て支援の大切さを確認していた。

<写真説明>1、奈良市内のホテルフジタ奈良で取材、ラウンジの後方の庭が美しく背景に2013年10月12日撮影。2、昭和20年代後半の国鉄奈良駅、平城宮跡の保存運動に私財をなげうった棚田嘉十郎が明治末に建てたもの。今は少し西へ移動し旧国鉄奈良駅駅舎の広場の前に建っている。紀伊国屋はなくなってパチンコ屋になっている。3、大宮通、路面に近鉄奈良線が走行していた時の写真、昭和20年代後半の油阪、近鉄電車奈良駅から油阪まで約1キロの区間、車と併用軌道、交通量の増加で地下化されて油阪駅はなくなって新大宮駅が開業した。4、昭和20年代の近鉄奈良駅、地上にあった奈良駅ホーム、地下化されて奈良線が開通したのは昭和44年(1969年)12月9日、翌年3月奈良近鉄ビルが完成、現在の近鉄奈良駅になった。5、2011年2月26日、撮影、雑記帳の集いの編集会議、冊子投稿原稿の校正をしているところ、1番前の右が粟田妙子さん、奈良新聞社会議室。補足説明~2・3・4の写真は入江泰吉記念奈良市写真美術館が構成・編集した「入江泰吉の原風景―昭和の奈良大和路(昭和20年~30年代)」の写真集から転載して参考資料にした。








[ 2013/11/30 05:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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