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奈良おんな物語《34》「保育士・子どもと一緒に生きて・粟田妙子」中:鄭容順

「ボランテイア活動」
粟田妙子さんは保育園で子どもとかかわる仕事していることから、奈良市内で開かれた「ならまちわらべうたフエステイバル」にも参加、そして奈良市音声館にも行くようになった。そうしたつながりを通して当時、館長だった荒井敦子さんに学び子どもたちと一緒に活動してきた。このとき海外研修で初めて外国に訪問したのが韓国慶州だった。



粟田妙子2

慶州の「ナザレ園」に行ったことは生涯忘れることはできない。
日韓関係の足跡、ここに訪問して初めて知ることになった。学校教育でも一般教養でも学ぶことができなかった歴史史実を知ることになった。
日本婦人が年老いてナザレ園で暮らしている。
日本婦人は「日本の言葉は知らない」といっていたのに日本語の歌を知っていた。そしてさらに慶州で会う人たちを通して日本語を知っている韓国人にも考えさせられた。

こうした歴史関係を知る中で粟田妙子さんは中学時代の記憶を話した。
「そういえば私が中学時代は朝鮮戦争がありました。第2次世界大戦後、連合軍占領下の日本、アメリカ兵を相手にするRRセンターが当時、平城宮跡(大宮から尼辻あたり)に作られてアメリカ兵が使っていました。戦後処理の国家緊急施設の一端として駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の公募から始まったといわれています」
朝鮮戦争の最中、ここで心を癒して戦争に行ったアメリカ兵たちだった。ここはいろいろな意味があった。
「三笠中学校のマラソンコースはあやめ池まで走るのですがRRセンターの側を走って帰ります。RRセンターがあったことは現在、誰も話しませんが、これは奈良の歴史の1つです。アメリカ兵が朝鮮戦争にRRセンターを利用して朝鮮戦争に行きました。このことは『奈良県女性史』に書かれている。当時中学生でこの側に中学校があったことから私は鮮明に記憶している奈良の歴史です」と話す粟田妙子さん。

平城宮跡

三笠中学校

詳細はこのホームページを参照。
特殊慰安施設協会

「保育士の退職後」
27年間勤務した保育園を退職した後に再就職をしたのが奈良市内にある奈良保育学院の講師、授業は1コマ90分、2コマを担当した。60歳から7年間の勤務、講義は絵本の大切さを教えて赤ちゃんからの生活のお母さんのありかたなどを教えた。粟田妙子さんはオルゴールが好きで30を越すオルゴールを収集。収集したオルゴールを授業に持っていくこともあった。
赤ちゃんからの絵本の教育の講義に学生たちの多くは感銘を受けた。
学生たちは小さい頃に親に読んでもらっていた絵本のことを忘れていたが授業の講義で親に読んでもらった絵本のことを思い出して絵本のよさを学生たちは再確認していった。
「授業の初めには必ず絵本の読み聞かせや手遊びなど、子どもと一緒に楽しめることをしてからはじめた。学生たちは幼い頃からの母とのつながりを思い出し何歳になっても絵本を読んでもらう心地よさ、絵本の力を再認識していったのです。絵本の力を大人にも赤ちゃんにも知ってもらいたいです。幼い頃から絵本に接することで赤ちゃんが成長に応じて想像していくのです」粟田妙子さんは話す。

<写真説明>1、戦後の歴史の記憶を語る粟田妙子さん。2、昭和31年(1956年)の平城宮跡、一条通りから西の生駒山を背景に凧揚げをする子どもたち。写真は入江泰吉記念奈良市写真美術館が構成・編集した「入江泰吉の原風景―昭和の奈良大和路(昭和20年~30年代)」の写真集から転載して参考資料にした。3、1953年、第5回の卒業生の写真、奈良市立三笠中学校のホームページから転載。粟田妙子さんはこの1年後の卒業生、この当時の中学生の記憶として画面に掲載。



[ 2013/11/28 05:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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