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奈良おんな物語《34》「保育士・子どもと一緒に生きて・粟田妙子」上:鄭容順

「プロフィル」
粟田妙子さんは1940年生まれ(73歳)。奈良市在住、奈良市立保育園の仕事に就いたのは33歳、60歳で定年退職をした後、27年間の体験を生かして奈良市内の私立白藤学園の奈良保育院で7年間勤務した。


粟田妙子さん、電話で会話

その傍ら子どもと関わる何かをしたいとの思いで入会した「奈良子供の本連絡会」の諸先輩に誘発され、さらなる活動へとつながっていく。「ブックスターと」を実践。「子育て支援」「絵本ギャラリーin奈良」「奈良の民話を語りつぐ」、保育園への「おはなし配達」へと広がってとまることを知らない。奈良で生まれ育ち結婚しても奈良に住んでいる。自称「奈良っ子」という粟田妙子さんです。
「ブックスタート」の活動は『赤ちゃんから絵本、赤ちゃんに笑顔を』合言葉に絵本の読み聞かせ運動することです。

「敗戦後の思い出」
―小学校入学―
粟田妙子さんは昭和21年(1946年)、終戦直後に小学校に入学している。上の兄の教科書は墨で塗って黒くなった教科書だった。しかし粟田妙子さんのときは粗末な藁半紙に印刷、バラバラにされたものだった。
それを自宅に持って帰ると母親が便箋の表紙を外してバラバラの藁半紙の教科書を和綴にしてくれた。「その便箋の表紙の絵は豊年と書かれ実った米の稲穂をかかえる母子が描かれているものだったのです」と話す粟田妙子さん。
粟田妙子さんは奈良市立大宮小学校に通学、1年はカタカナを習い2年で平仮名を習った。この頃、小学校6年の頃(1952年)の11月、奈良新聞の前身、「大和タイムス」(当時の国鉄奈良駅前、旧国道24号線)の火事があったことや「紀伊国屋旅館」(同じく国鉄奈良駅前と三条通りの交差点)の大火事も覚えているという。
粟田妙子さんは当時の国鉄奈良駅の状況を話す。
西側の線路のところは職員の官舎もありました。機関車も置いてありました。ここには石炭を乾留(蒸し焼き)したもの、コークスが機関車の近くにたくさん落ちていた。それを拾いに行って家庭に持ち帰って七輪に入れて炭の代用をしたのです。火力が強くコークスで炊くお粥さんがまた格別に美味しかったのす。兄弟7人、姉は結婚していたが戦後、物資のないとき貧しくても家族が助け合っていました。父親はずっと咳をしていたので国鉄奈良駅の近所に住んでいたのでコークスが影響したのではないかと今は思ったりします」

国鉄奈良駅の機関車

奈良駅の地図

―小学時代―
中学時代、新学期に際しての当時の思い出話に教科書のことがある。
当時、どこの家も貧しくて子どもの多い家族では教科書の購入も大変だった。4月の進級前になると前の学年のお下がりを頂くのに子どもたちは競争のように奔走したそうだ。
「そのときの通知簿にかかれたのが『身体の栄養不良』だった。ガリガリにやせていた」と、戦後間もない児童・生徒たちの姿をたどる粟田妙子さん。

―中学・高校時代―
奈良市立大宮・椿井・都跡・伏見小学校は当時、奈良市立三笠中学校に進んだ。当時の三笠中学校は現在の奈良市役所の所にあった。中学3年になって何が嫌だったということに「進学組」と「就職組」に分かれることだった。家が貧しくて成績がよくても高校に進学できない悔しさ、せつなさを味わっていく。
中学3年の担任教師がいい教師で成績優秀の粟田妙子さんに定時制高校の進学を勧めてくれた。そして奈良県立奈良高校定時制に進学、昼間は奈良市立三笠中学校で事務や雑用などをして勤務した。
勤務すると朝1番にバケツ2杯の湯飲みコップを洗った。冬の教師の弁当をかまどの横に並べて温めたので教師に大変喜ばれた。
三笠中学校の仕事で1番大変だったのは中間・期末試験の時だった。1教科プリント3枚平均と回答用紙を10教科、それを1学年11クラス~13クラスの3学年分を輪転機で印刷することだった。定時制の授業は5時半から。中学校から一条通りに出て奈良高校まで歩いて通っていた(今の奈良市役所から法蓮町の春日野荘まで)。
粟田妙子さんは「様々な理由で定時制に来ている生徒が多く年齢の差もありました。生徒の中には先生より年上だったり、子どもがいる人もいました。勉強をしたくても戦時中に学ぶことができなかった人や働くことで学歴に気付かされて勉強をし直す人もいました。いろんな仕事に就いていて会社によって定時制に理解のない所もあって遅れてくる人もいました。また時間的に困難で学校に通えなくなりやめていく人もいました。
そのような中で私はいろんなことを学び体験できてうれしくまた楽しい青春でした」と回顧する。

三条通り

一条通

―高校卒業後―
レントゲン技師として病院に勤めながら演劇活動をしている男性と知り合い結婚をした。2人の子どもを元興寺極楽坊保育園に預けて働いていたが上の子が小学校に入学するので専業主婦になった。その間、保育資格の講座・試験を受け合格した。その直後、6ヶ月保母のアルバイトをしている時に運よく奈良市立保育園の採用試験があって受験し合格した。これもラッキーなことに年齢制限は35歳、粟田妙子さんはその時33歳だった。
保育園では当然先輩がほとんどで年下の粟田妙子さん。何度か転勤しながら27年務めを果たした。その頃、公立保育園では朝7時30分から夕刻6時30分までだった。それがなかなか迎えに来ない親がいた。親が急病で入院され自宅に連れて帰って泊めたこともあった。
「今だったらこんなことは大問題になるでしょう。保育園の保育士がどこまで私情を許せるのか。今では大事なことだと考えている」と、当時を振り返って保育士の役割について語る粟田妙子さん。
また「2人のわが子には満足なことをしてあげられなかったけど、保育園勤務は自分に合ったやりがいのある職業でした」とも話す粟田妙子さんです。

<写真説明>1、2013年10月12日、ホテルフジタ奈良のラウンジで取材。友人と話している粟田妙子さん。2、国鉄奈良機関区(昭和30年代前半、当時の国鉄奈良駅の西側に機関車等の修繕、検査をする機関区があり扇形の建物だった。3、当時の国鉄奈良駅周辺の地図を手書きした粟田妙子さん。4、昭和27年(1952年)の三条通り。5、関西本線一条通踏み切り(昭和26年12月=1951年)、現在のJR関西本線と地方道奈良加茂線が交差するところの踏切、戦後、奈良に進駐軍が駐留していたこともあったことから標識が英語表記されている。補足説明~2・4・5の写真は入江泰吉記念奈良市写真美術館が構成・編集した「入江泰吉の原風景―昭和の奈良大和路(昭和20年~30年代)」の写真集から転載して参考資料にした。
[ 2013/11/26 07:50 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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