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新双方向版 蛇行社通信「もう一つの」可能性へ」:吉田智弥

 休刊していた吉田智弥さんの個人誌「蛇行社通信」が復刊された。毎月1回メールで希望読者に送られている。今月から転載するタイトルも 新双方向 と 「蛇行社通信」 の前につく。鋭いし視点で現代の民衆運動、文化、政治を問う。一回目は「もう1つの可能性へ」。


10月某日、弁護士の田川和幸さんとお会いして2時間ほども話をした。「近刊予定の本の中で 『もう一つのシルク博』 に触れて書いたが、事実関係に間違いがないかどうか、原稿を読んでチェックしてほしい」という依頼であった。
それは1988年7月に、当時の、奈良総評、社会党奈良県本部、部落解放同盟奈良県連などが実行委員会を組織して取り組んだイベントである。それぞれの団体の青年部活動家たちがエンジンとなり、その周辺に、企業連、解放同盟婦人部、朝鮮総連を初め、各種のテーマに取り組んできた市民グループが集まった。
田川さんの原稿から結論部分を引用すれば「参加者は1万2千人を超えた。奈良県下の労働組合共催のメーデーでも1万人に届かない奈良県にあっては、驚くべき多数の参加者であった」云々。人数の「1万2千人」は翌日の読売新聞の見出しに依る。

ところが、翌1989年に総評が解散した。1993年には部落解放同盟奈良県連が分裂した。同年に社会党が選挙で大敗北を喫して、96年には党名を社民党に変えた。その後の凋落は周知の通り。だが他方で、会場で奔走した青年部活動家たちの中から、何人もの自治体議員が生まれた。紆余曲折はあったけれど、全逓や国労の後継労組で中央本部の役員になった者もいる。「昭和」の終わる前後が、民衆運動の大きな分岐点だったろう。

 関連して取り組まれた学習会の一つから「一人でも入れる労働組合」が誕生したことも忘れられてはならない。委員長の吉川政重さんは、市会・県会議員を経て、2009年夏には衆議院議員に当選した。そこに至る源流に「もう一つの・・」の水脈があった。

実は、冒頭に書いた田川さんと会う数日前に、吉川さんに会った。昨年12月の選挙で落選したあと、「遊んでいては家族を養えない」のと、「昼間の活動時間を確保する」ために、経歴を隠して、夜間警備員となった。49歳、給料は20万円ほど。その大阪支社の近くで、昼休みの時間に無理を言って時間をとってもらったのである。

「民主党内では、原発輸出を認める法案に反対して本会議で造反するなど、主張すべきはしたので自分としては悔いはない。絶望的な思いを抱いたのは、有権者の見識のなさ」だという。前回の選挙では112000票を獲得したのに、今回は36000票にまで落ち込んだ。間隙をぬって、何の実績もない無名の維新候補が50000票を獲得した。

吉川氏としては「選挙民は何を考えてるんや」と言いたかったろう。一っ時に輩出した地方議員たちも、今は全員が落選したり、引退したりして市井に戻っている。

 私たちに何が欠けていたのか? 「もう一つの・・・」会場入口に掲げられた英文字の看板は、担当者の独断で「Another Silkroad Exposition」となっていた。本来の「もう一つの」は、支配的な価値観に対抗する意味をこめて「Alternative」になる筈であった。一番肝心な、その点に関する議論がすっぽり抜けていたのである。

[ 2013/11/03 18:58 ] 寄稿 | TB(-) | CM(-)


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