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奈良おんな物語《32》「奈良の穀醤(ひしお)の研究35年・横井啓子」下:鄭容順

「横井啓子さんの紙面活動」
横井啓子さんの研究会に注目する奈良県人は多く、奈良新聞の生活面に1ヶ月に1度、『なら食』研究会代表として第1水曜日に寄稿されている。タイトルは「奈良の食魅―自然と歴史を食卓へ」です。
奈良との関りを調査したものを紙面で発表、関心のある方には好評で丁寧に書かれた原稿を紹介します。2008年12月からから毎月1回の寄稿、今年12月でまる5年を迎えることになった。



『奈良時代から栄養食・ウナギ』(2013年7月3日付け)
文書は、ウナギの歴史はとても古く、縄文時代の貝塚から骨が出土している。天然ウナギは秋から冬がおいしいらしいが、江戸時代の中期、平賀源内が流行(はや)らせてから、夏、「土用の丑(うし)」にウナギを食べることが定番になった。しかし「石麻呂尓 吾物申 夏痩尓 吉跡云物曾武奈伎取喫」と、すでに『万葉集』には大伴家持が吉田連老の夏痩せにウナギを食べるようにと奨めていることから、奈良時代すでに食べ物が健康を支えているという発想があったことが分る。
家持はウナギを「武奈伎(むなぎ)」と詠んでいる。「む」は「身」を意味し「なぎ」は「長し」からとする説や、天然で活きが良いものは胸が黄色いことから「むなぎ(胸黄)」と呼んだという説もある。ウナギと呼ばれるようになるのは、平安時代以降らしい。
古代では塩味でたべているが、その後、江戸時代までは、酢味噌や辛子酢で食べていた。蒲焼は関西で始まったらしく、室町時代、京都吉田神社の神職である鈴鹿家の記録『鈴鹿家記』に、ウナギを筒切りにして串に刺し、焼いて食べたとある。その形が蒲の穂に似ていたことから蒲焼と呼ばれるようになったらしい。
江戸時代前期『和漢3才図会(わかんさんさい図会)』に現在のように開いて焼く形が見られるが、一般に食べられるようになったのは江戸文化の華が咲く江戸末期頃で、『江戸前大蒲焼番付』が発行され評判を競った。
しかし、当時の庶民には駕篭に乗るのと同じくらい贅沢と言われ、値段も高かった。その理由の一つとして、関東では醤油が造られず上方からの高価な下がり醤油しかなかったことが挙げられる。
その後、江戸の人の嗜好に合う濃口醤油が生まれ、一気に大流行していく。江戸の町にウナギの辻売りやウナギ屋が生まれ、江戸で蒲焼の全盛期を迎える。この時期に確立されたウナギの蒲焼が現在まで変わらず続いているという。
さて、日本は世界一のウナギ消費国である。季節。川の水質、餌などで違いはでるが、ウナギは天然物に限ると言われる。しかし、99%以上が養殖で輸入品が多い現在、天然物はまず無理だろう。この数年、ウナギをめぐる国際情勢は厳しいものがあり、ウナギの養殖に使う稚魚が不漁で未曾有の高謄を続けている。
ウナギとコイは生きていなければ美味しくないと、その場で生きたウナギを割いて調理するため、炭火手焼きの美味しい鰻屋は時間が掛かると言われたりする。
今日、奈良町を散策した時、土用の丑にはまだ早いが、猿沢池湖畔にある鰻屋「吉野」で「うな重」をいただいた。

授賞式

『極上 曽爾高原ビール・地ビール』(2013年9月4日付け)
9月に入ったといえ、まだまだ冷えたビールが美味しい。ご存知のように世界には、多くの銘柄のクラフトビールがある。
日本へは江戸時代中期頃、オランダ商団一行が伝えたとされ、のち蘭学者・杉田玄白の『和蘭問答』に「酒ハ・・・麦酒給見申候処・・・名ハヒイルト申候」、さらに福沢諭吉の『西洋衣食住』が『ビイール』ト云う酒アリ 是ハ麦酒ニテ・・・」などとして記している。
日本に持ち込まれてから270年ほどたった平成6(1994)年4月、酒税法改正によって日本全国に「地酒」のイメージと同じく「地ビールブーム」となったが、価格の安い発泡酒や第三のビールが現れ、次第に沈静化していった。
ところが地ビール、またクラフトビールと呼ばれるビールは、個性が強いという印象があるが、実際はどうなのだろう。
奈良県には三重県との県境に位置し、秋には一面ススキで覆われる曽爾高原に地ビール醸造所「麦の舘」がある。幸せなシチュエションである。
そこで醸造される曽爾高原ビールは、ドイツのブニーラウマイスター、ティム・シュラグヘッケさん直伝のビールである。麦芽とホップを主原料にビール酵母を加え、副原料は一切使用しない麦芽100%のビールである。
当初、県内産の麦も検討されたが、ビールには不向きということで、現在ドイツ、イギリス等の輸入大麦を使用している。
もう1つ、世界で一番水を使う酒造りと言われ、水の品質は大きい影響を与える。曽爾高原ビールは、火山地形から湧き出る「平成の名水百選」に認定された超軟水で仕込んでいる。
さて、発酵方法の1つに、発酵中に酵母が、もろみの表面に浮き上がる「上面発酵」がある。常温で発酵する伝統的な造り方で、代表的なものにイギリスのエール、ドイツのヴァイツェン、アイルランドのスタウトなどがある。
曽爾高原ビールではアルト、ケルシュがこれ当たり、どちらかといえば濃厚で、個性のはっきりした味わいに仕上がっている。
一方、150年ほど前、冷凍機の発明により普及した醸造方法で、低温発酵させ、発酵の終りに酵母が底に沈んでいく「下面発酵」がある。チェコのビルスナー、ドイツのドゥンケル、日本で流通している9割のラガータイプが代表的である。
味わいは、すっきりと軽快な喉越しが楽しめ、曽爾高原ビールではボック、ピルスナー、ヘレスがこれに当たる。
いずれの発酵方法であっても曽爾高原ビールは、超軟水で仕込み、酵母菌の濾過、火入れをしない完全な生ビールである。
熟成し、角の取れた美味しいビールは、温度やグラス、注ぎ方でも味がかわるという。
今、「とりあえずビール」の概念から、味わいを楽しみ、季節の料理やその日の気分に合わせて飲み分けする。ビール嗜好の二分化が始まっている。

他に「甘酒」、など多数の食材を掲載されて好評を得ている。

「講演活動」
横井啓子さんは「食育」を生活の中で最も大切なものとしてとらえていることから「食育」について「講演活動」を数々行なっている。
その場所、その場所に応じての講演活動、子育ての経験と長年奈良の食文化の研究をしてきたことでその経験からの講演は好評を博している。
学校を訪問して生徒たちの前で講演をする。中学生は中学生に合う話をする。高校生にもそうしている。またあるときは3才の子どもさんから中学生、子育てをしている30代40代など20数人を前にして講演活動もすることがある。
小さい子どもでもその時は意味が分らなくても「あのとき耳にした言葉」がずっと体の中に残っていく。「ひしお」についても話していく。いつか必ず出合うことを信じて話していく。言葉がどこかで残っているはずですから。
奈良の食材を使っての講演、「大和茶」を素材にして話したことがあった。
近年は「お茶」というものはペットポトルで飲むと思っている子どもたちが多くなった。子どもたちが5年、10年経ったとき「そういえばこんなことを聞いたことがあった」と思い出したとき、そこからまた本を読んで調べていくことにつながっていく。
また奈良女子大学に於いても講演会を実施してきた。
『なら食』研究会は2005年4月に立ち上げて奈良県始め全国で講演活動している。2013年5月18日「食文化の視点から地産池消」、7月20日「ひしお」について講師を務めた。

ひしおの料理講習1

ひしおの料理講習2


「食ツアー」
『なら食』研究会は2013年6月13日で21回の「食ツアー」を行った。これまで「酢工場の見学」「酒」「春雨」などについて見学している。こうした詳細は「横井啓子さんが食に思うこと」など、横井啓子さんのホームページで紹介されています。ホームページを開いて参照して下さい。

食ツア-

「他の活動」
地域のテレビ、また関西などの民間テレビ、NHKテレビなどにも出演して『なら食』研究会、「ひしお」の研究などを紹介して多くの人に日本の食、そして食育のありかたをお知らせしている。

「横井啓子さんが語るページ」
筆者が聞いた内容は主に「ひしお」についての話だった。しかしインターネットで検索すると横井啓子さんが1人でも多くの方に伝えたい内容の画面があった。その画面の内容をここで紹介します。
インターネットから検索したのは「関西電力」が構築しているページで「今・日・話」・・・奈良の女性・・・いちぼると」に、横井啓子さんの『なら食』研究会と「日常」などインタビュー形式で紹介されている。筆者はこのページを抜粋して『なら食』研究会、半世紀にわたっての思いや考えを紹介します。

横井啓子さんは筆者がインタビユーしたときにも「味覚は人間形成です」と何度も話していたが、一貫してその考えを持っておられる。
このページの見出しは「味覚は一生の財産だと思いますね。奈良の食材を通して、味覚を育てるきっかけ作りのお手伝いができればと願っています」と。趣味はとの質問に、なかなか時間がとれなく『なら食』研究会を立ち上げてからはこの『なら食』研究会が生活の大部分になったという。インタビユーとの回答形式の記事をここにまとめて編集して掲載した。

―山野草さんやそう)―
山野草を育てる始まりについて。
自分の庭で年中何かしら咲く花に囲まれ、また部屋の中にも活けて自然の季節を感じたいという。横井啓子さんの家の庭に洋花が向いていない。陽射しや土などが洋花の条件に合わなかったという。しかし山野草は庭の条件に向いていた。自分の生き方と相伴って山野草に気持ちが入っていった。山野草は見た目は楚楚として優しいが、ほっておいても丈夫で育てやすいということ。心が癒されていく。

―『なら食』研究会―
奈良には「食」の原点になるものが多く、しかもそれらを作るプロセス、経過が見られる。このことを皆さんに知ってもらいたくて2005年4月に創設した。伝統食といったものでなく「食」の素材で食材そのものに興味がわいて、ずっと奈良の食材を調べまわった。調査の原点は「醤油」という。
「地元の醤油」ということでなく醤油を作っているところが身近にあったことに驚き、醸造会社を訪ねると醤油の匂いが漂っている。そして奈良県のあちらこちらに醤油を醸造している会社があった。調査をしていくとそのつながりから様々なことを教わり「醤油」の知識がひろがり、深まっていった。その延長戦で「酒」や「葛」へと調べる食材が増えていった。そのデーターの蓄積が『なら食』研究会に発展した。
筆者がこのページですでに紹介しているが動機も考えも一貫している。

―小石―
「奈良の食」を調べ始めてから数年、出会った方々から「まず小石を投げろ」という言葉、「発信したら」というアドバイスです。それだったらできる。してみようということになって活動は外にひろがっていった。アドバイスをした人は「小石を投げることで大学での研究も含めて、専門家の研究も深まっていく」ということだ。小石を投げる人がいなかったら「発展はない」といわれた。小石くらいなら投げられると考えて、1人でも多くの方に知ってもらう機会になればと『なら食』研究会の立ち上げになった。その小石が「穀醤」でした。

―醤(ひしお)―
醤についてはインタビューした時に聞いた言葉を前文でも紹介している。
ここではまた違う形の言葉などがあることからもう1度加筆をします。
いくつかある醤のなか、穀醤と醤油とはよく似ている。穀醤は醤油と同じく発酵塩蔵食品である。家庭の中で最も身近な調味料の一つが醤油であり入口である。知りたい、もっと知りたいと、その歴史や醸造方法などを可能な限り勉強していたところ講演の要請がくる。当然、醤油の話になる。しかし醤油の話には醤は避けて通れない。聞いている人は「醤」の言葉を知らない。知っていてもどんなものか分らない。それでも黙って聞いて下さる聴衆者。そのときに学んだことは「醤はこんな形をしていて、こんな匂いや味のするものだということを知らせよう。そうすれば身近な醤油が、醤の長い歴史のなかで日本人によって育てられ、社会的環境のなかで変遷してきたことが伝わる。どんな食べ物も当たり前の物はない。かならず社会的環境や自然環境に影響を受けることを伝えたい。つまり日常で食べているものは一朝一夕にでき上がったものはないのです。醤油も400年以上も前からいろいろな人の経験と努力の積み重ね、いま現在、当たり前のように存在し使っている。自分の味覚は自分が作ったものでなく、先人たちの力で作られてきたという認識をしてほしい。その日本人の味覚を伝えるには醤を造ることだと思い、そこから造っていくことになった。」と。
穀醤は基本的には今の醤油とほぼ同じである。1300年ぐらい前の穀醤が、それが時代とともに普及していくための諸条件が乗っかって今の醤油になった。使い勝手がよく保存できる。経済だけでなく社会や自然の条件による変化です。

醤を復活させて1番最初に口にしたのはもちろん横井啓子さん。そのとき「美味しいと思った。旨みのある美味しさ。21世紀に生きる者にも違和感のない美味しさに加え、日本人の味覚を確認できる美味しさだと思えた。」という。西暦530年から550年頃に書かれた中国の世界最古農業技術の書物、「斉民要術」をスタートに2001年から醤の研究を始めると、醤が日本の中で味覚として位置付けられていくのは奈良時代。それから1300年経った今でも美味しいと思うのは日本人の味覚の価値観がその時代にできたと考えられるから。そして「味覚とは何か」という「知りたい」という気持ちが増幅していったという。醤をつくる道具は台所にある普通の物、蒸し器等などの類だが道具は現在のほうが進んでいても特別なものはなにもない。

―問題意識―
勉強はいつでも、どこでもできる。家庭の台所で煮物をするときに、例えば料理本に醤油大さじ1杯と書かれていたら、なぜ「大さじ1杯入れなきゃならないのか」から始まって、「大さじ1杯の醤油の塩分量はどれくらい」など々考えていく。そして調べてみようと思う。問題意識さえ持てば勉強の妨げになることは何もなかった。たとえば「醤油一杯には甘味、酸味、うま味、鹹味、苦味があり、香りと相まってバランスがとれた世界にほこる調味料である」と語る。日本人は単一の味を追求したのでない。調べ出してくるとここまできた。


―学習型ツア―
『なら食』研究会の活動に学習型ツアーをしている。これがメインになる。普段なかなか触れる機会がない奈良県下の「食」産業。「食」にかかわっている現場へ出かけて奈良の食品を身近に見聞して、食品を使う側と食品を作る側の交流をすること。食材や食品の歴史や存在意識を理解して「食」について何が大切かを自ら考えて血肉化するための学習型ツアーを年3回、企画して実行している。月ヶ瀬の烏梅、田原本町の西瓜の種子などの見学、それ以外に「食」のイベントや勉強会の開催、「会報紙『なら食』フードeye」の発行などを行なっている。横井啓子さんは代表として講演、生涯学習の講師、新聞のコラム執筆、ラジオ番組出演、また大学もゼミにも講師としていく。
『なら食』研究会のメンバーは70人程、40代は少ないが20代から80代まで幅広くおられ、やはり女性が多い。『なら食』研究会の「なら」の平仮名は「奈良」という漢字をあてるより平仮名のほうがひろがりを持たせられるとして平仮名にしたという。

上記の文書はインタビユーをした人が質問・回答形式で記事にされたものを筆者は抜粋して編集をして紹介したことに読者の皆さん、ご理解を頂きたい。

「今後の取り組み」
「水」に取り組みたいと横井啓子さんは熱弁した。
「日本の水は世界中で1番美味しい水です。山を大切にして田んぼを守りため池と川の織り成す日本の水文化、日本酒の美味しさは水が美味しいからいいお酒が造れる。先人たちが日本の水を生かして日本の食材、寿司に刺身と生物を和食に取り入れていく。軟水という水に日本人の技が積み重ねられてきたもの。今後は水に注目していきたいです」



「筆者の感想」
1度目は2013年5月18日、奈良女子大学で横井啓子さんが「奈良の食魅ライブラリー」の中の「食文化の視点から地産地消」についての講演会が行なわれた。確か4月の終り頃に「奈良おんな物語」で取材要請をメールで要請すると講演活動に『なら食』研究会で多忙を極めているということで8月にお会いする約束をした。その前に筆者も勉強のために奈良女子大学のキャンパスに訪問した。最初、お会いすると講師の形が板についた横井啓子さん。講座は時間きっちりと終えられた。またまた筆者は驚き、学んだ体験は資料に詳細に書かれ、紙面にない講義は体験と学習を積み重ねたものだった。
もう1度、聞きたいと思った7月は猛暑と「奈良おんな物語」の原稿作成に追われていた。参加できなかったことが今も残念でならない。
そして8月30日、自宅を訪問した。新興住宅街の一角にある建物、この家で醤の研究をされたのか。筆者とそんなに変わらない年代にただただ感動していた。1つのことにこだわって続けてこられた研究活動に奈良県民の1人として頭が下がる思いだった。その思いの信念の強さに魅かれた。
筆者は8月の半ば、墓参りで外出、3時間の車の冷房で膝を痛めて回復が遅く、足を引きずりながらの見苦しいところを見せることになった。失礼とは思いながら横井啓子さんの多忙な中の日程は変えることはできないと考えた。
2度目にお会いした横井啓子さん。奈良女子大学で見た講師のイメージでなく、なんとチャーミングな人なの。が、筆者の第一印象となった。

チャーミングな温かさのある人柄、「醤」にかけた探究心のエネルギーはどこからわいてくるのかと考えた。が、その心は問題意識を持つとそのままにしないで「なぜ」「どうして」「それから」が、図書館や現場に行って調べる行動力が積み重なったものだった。調べることで多くの人と出会っていく。横井啓子さんは出会った人とのつながりも大切にしてその人脈の輪がそして和になって「穀醤」を再現させるエネルギーを蓄積された。活動は行動力と取材して思った。
長い活動なのに筆者は『なら食』研究会に気付くことがなかった。筆者自身の身辺があまりにも忙しく関西地域でも在日コリアンの中で現場を追いかけ、自宅に戻るとパソコンキーを叩いての原稿作成、その合間は主婦をこなしていく日々に、これでよかったのだろうか。奈良のことは何も知らないできた25年、心の中にひびが入るようだった。
奈良の文化遺産や史跡・名所、男性の影に埋もれないで自分のできることから活動している奈良県の女性がまた一層愛しくなった。自分らしく生きている女性、横井啓子さんの行動と活動に感服していた。もう1度、お会いしたい。チャーミングな笑顔にまた触れたいと思っている。10月に入ってやっと膝の痛みが取れてきた。また横井啓子さんの講座活動にかけつけてみよう。
もう1つ感心したことは、満50歳になった時、今までしなかったことに挑戦してみたいという気持ちに駆られて、その一つ、パソコン教室には通わず自力でパソコン作業をクリアしたということ。5月18日の「奈良の食魅ライブラリー」に配布された資料も横井啓子さんが作成されたというが、その完璧な資料にまた驚き、いつも学ぶことの大切さを教わった。生涯、問題意識を持って学ぶことにあると改めて認識をした。
今後もさらに「奈良の食文化」について研究し、発表して、もっと広めて頂きたい。
「穀醤」を作り、平城遷都1300年祭に販売ルートにのせるまでの努力と醸造会社との交流関係に、筆者はキラキラ光る「キラ星の横井啓子さん」と思っている。
そしてもう1つ、横井啓子さんに感謝です。
筆者は取材しながらメモを取るのは早い。しかしノートは自分しか読めない乱雑な文字の羅列、時に2・3、自分の書いた文字が読めないときがある。取材してすぐに赤のボールペンでもう1度、文字を読み直して書いていく。それでもインタビユーした事柄に勉強不足です。原稿を書くときに戸惑いがある。それで取材した人に必ずゲラの確認作業をしてもらっている。専門的な「穀醤」もきちんと訂正して下さった。他にもところどころ訂正して下さった。日々、多忙極める横井啓子さん、この原稿のために時間を割いて頂き心から感謝をしている。「奈良」という大和、「穀醤」といえば「横井啓子さん」、さらにさらに広がっていくことを願ってやみません。

<写真説明>1、日本醤油協会が実施した「第1回醤油地域貢献賞」を2011年9月30日に授与されて東京での授与式。「醤」は東大寺に奉納、春日大社では祭典で使用している。2・3、「ひしお」を使って料理講習会を開いている。大人も子どもも参加、奈良のいにしえの調味料を使って奈良のことをたくさん教え、家庭生活のあり方も教えている。4、「食ツアー」です。御所市の薬資料館を見学した時です。写真は「なら食」研究会のホームページから転載した。

[ 2013/10/05 06:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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