ジャーナリズムの基本は“事実の報道”である、と新聞記者時代に教わった。そして、“社会への警鐘”という使命があるとも。もちろん、重要な役割として“権力のチェック”があることははずせない。
という立場から、福島第一原発事故の一連の報道を振り替えると、いかにも心もとない。高濃度の汚染水が300トンも流出していたなんて、タンクが鋼板板を繋ぎ合わせただけの一時的な作り物だということは最初からわかっていたことだから警鐘を鳴らすことはいくらでもできたはずだ。
また、事故の収束や補償、復興を考えればいくらお金があっても足りないことは素人でもわかる。この未曾有の緊急事態は、東電を破綻処理し、自衛隊が買うと言っているオスプレイ、無人機や米軍への思いやり予算をカットし、軍事費を復興費に回すくらいでないと乗りきれない。そういうキャンペーンを張るのがジャーナリズムはというものではないのか。事故の後追い記事ばかりでは、読者のフラストレーションは募るばかりだ。
福島第一原発の汚染水問題は、汚染水漏れが解決策のない深刻なものであることが、今回のレベル3とされた事故によって証明された。しかし、そのことは報道機関でなくても最初からわかっていた。東京新聞のみは早くからタンクの構造の問題を指摘し、タンクが足りなくなると警鐘を鳴らしていた。が、大きな社会問題とならなかった。
また、原発建屋の排水路や取水路は海と繋がれており、地下水は建屋敷地内とその周辺に連続して存在しているのだから、建屋敷地内から海に流れ出ていることも容易に想像できる。マスコミは、ジャーナリズムの使命である“警鐘”を鳴らすことに不十分であったと言えよう。
一方、政府・規制庁は、東京電力が安全性を基本にした放射能管理の考えではなく、経営や経済性を重視した汚染水管理対策を取っていたことを見逃してきた。それは、自らも“モグラたたき”と呼んでいるような度重なる汚染水漏水に対して注意をするだけで、これまで現地調査さえしてこなかった姿勢に現れている。マスコミは、そのことを指摘することなく、ただ政府と東電の発表を流すことに終始してきたように見える。東電や政府が持っている情報を開示させ、基本的な問題点を指摘する必要があっただろう。
それは、権力を持った機関や個人の活動をチェックすることにつながる。原発事故収束の問題だけとってもとんでもない額の費用がかかる。それは、国民全体が貧乏を覚悟しなければならないくらいのレベルのはずだ。ジャーナリズムの立場からは、この大きな問題に継続して取り組むことが求められる。すなわち、国の予算全体を見直し、軍事費や公共事業費などを大胆に原発事故収束の費用に回さなければならないほど深刻な状況であることを、廃炉や核燃料サイクル、年金・社会保障、国の財政危機などを含む総合的な国の針路の問題としてキャンペーンを張るべきだろう。
いまや国民は、マスコミが事実を伝えるという姿勢だけでは納得しないと思う。これからでもいいから、マスコミが、社会への警鐘、権力のチェックという大事な機能を発揮することを望む。
[ 2013/08/27 01:08 ]
南亭駄樂 |
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