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夜間中学その日その日 (308)   平井由貴子 

武器となれ、文字とコトバ

今年、守口夜間中学は開設40周年、節目の年を迎えた。11月2日には「開設40周年記念の集い」、11月8日は「夜間中学の公開授業」を企画している。また40周年記念誌の編集作業に取り組んでいる。元気が湧き上がる取り組みをめざしていきたい。
そして卒業生、元教員から、記念誌掲載原稿が届き始めた。執筆者の了解の得られた文章をこの欄でも紹介させていただく。(白井)


武器となれ、文字とコトバ 平井由貴子

私が在職したのは25年前からの11年間でしたから、当時の生徒さんの多くはすでに鬼籍にはいっておられます。
今年2月にも84歳の卒業生の訃報に接しました。幼少時より両親のネグレクトとD.Vを受けて義務教育を終えることができなかったという人でした。定年退職を機に夜間中学に入学したのち独学で獲得した国語力で1年後には定時制高校へ進み、自伝を自費出版しています。読まれた方もおられるでしょう。古典から現代の小説まであらゆるジャンルの文学に造詣が深く、それをひけらかすことなく70代半ばまで力仕事を続け最期は妹さんたちに看取られ静かに旅立たれました。
親の愛を受けられなかったという自伝の内容が事実だとしたら、終の棲家を大阪から遠く離れた故郷に求めたり、毎年の墓参を欠かさなかったりする姿は矛盾しているようにみえました。けれども髙野雅夫さんが「旧満州」から引き揚げる途中「自分を捨てた」と思い込んでいた「おふくろ」に「生んでくれてありがとう」と言えるまでにかかった歳月を思えば、彼の望郷の想いがすでに両親への赦しという答えになっていたのではないかと私は思いたいのです。コトバとは時として発した本人を裏切り新たな意味を与えるものですから。どうか天上で再会されたらこの世で果たせなかった親子の情を取り返してください。
ところで、髙野さん、背中に「武器となる文字とコトバを」と生徒さんの踊るような字で染め抜いた藍染のシャツはもう古くなったことでしょうね。あれは国際識字年スタートの1990年に初めて全校生で取り組んだ共同作品の副産物でした。その年文字どおり藍染・草木染に手を染めて以降、守口夜間中学の十八番(おはこ)となった感があります。「農楽」も翌年の「くらし(サルリム)」も「韓国版画集」から図案のヒントをもらったものでしたが、借り物ではない生徒さん自前の「文字と言葉」を作品にしたいと挑戦したのが1992年の「夜間中学しりとり」からです。すごく手間と時間がかかったわりに目立たない扱いしか受けなかったようです。それならばと20周年の1993年に迫力ある筆跡をそのまま染め上げたのが「夜間中学いろは」です。冬休みのしんとした教室でストーブを点けるのも忘れ46句の習字と向かい合い大きな布にレイアウトし終えた時のなんともいえない満足感。筆の文字からあの顔この顔が今でも語りかけてくる大作に仕上がりました。
1993年か1994年が「わたしは夜間中学生」でしたか、ずっと続いた染物から離れて銅板画風の粘土作品にしてみたのですが、重くて固定するしかなく、やっぱり持ち運びできる布に原点回帰したのです。この詩は胸を張って「わたしは夜間中学生です!」と世に問う生徒像を浮かび上がらせたいと願って日頃の生徒さんの呟きや叫びを構成しました。それが高校の日本史の教科書に載せられたのもむべなるかな、まさにコトバが「武器」となったのです。つづく1995年の「戦後50年目のゆいごん」も夜間中学生は内向きだけの存在ではないし、そうあってはならない、外に向かって発信する存在でなくては、とのメッセージをこめて構成したものです。
1996 年に私事に大きな事情が起き残念ながら以降の作品にかかわれませんでしたが、文字と言葉が行動につながり、行動がまた言葉をつむぎ出すという夜間中学生の系譜は今に受け継がれています。
生徒さんは言葉を遺し、聞いた者がそれを消えないよう文字に留め、読む人は言葉の力に鼓舞される・・・そんなすごい循環に立ち合ったすべての生徒さん、鬼籍にはいられた方も、ありがとうございました。
[ 2013/08/16 14:08 ] 寄稿 | TB(-) | CM(-)


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