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奈良おんな物語《29》「志賀直哉旧居に勤務して慈しんで・宗京容子」下:鄭容順

「結婚して」
結婚したのは1968年(昭和43年)、奈良市に夫の姑と同居した。
子ども3人、長女は結婚して東京に住んでいる。その長女は、幼児から小中高の子どもから大人に至るまでさまざまな事情を抱える人を引き取り、一緒に生活する里親のグループホームの活動している。テレビで放映されたりもした。
容子さんは結婚して姑と同居。何処の家でもある、嫁と姑の意見の違い、感情の摩擦などもあったが、姑に従い努めてきた。姑は70歳代に認知症になった。宗京容子さんは14年間、介護と仕事を両立、パワフルな暮らしをこなしてこられた。


銀杏や、の宗京さん

姑は最後の数カ月、施設に預かっていただいた。「勤務中だけは仕事があったから姑のことを忘れさせてくれました」と宗京容子さんは話す。
毎日の営みの中で、詩作は心の浄化を助けてくれた。
その当時、書いた「詩」を1冊にまとめて著書にした。著書から当時の宗京容子さんの心の様子、一端を覗いてみたい。
著書は「大もんじ草」、ペンネーム、高山さつきで、1996年(平成8年)に、自費出版をしている。A5版116ページ建て。
日々の暮らしの中の宗京容子さんの心の叫びの詩、1編1編、筆者にも思い当たることがあって心に染みて読んだ。収録された「詩」は135編です。ここに何編か紹介するが筆者の独断と偏見です。

大文字草の表紙

《高僧》
床の間に掛けられた「真玉泥中異」/私の初産の時、送られた色紙/貴方様のお姿が浮かびます/末寺の娘として貴方様にお会いできた日は/もういつの事であったのか/特にうれしく思えましたのは/私の結婚が決まってから/お祝いに色紙を頂だいし/主人には「寿」の色紙/私には「和為貴」の軸/我が家の家宝として/床の間に 掛けさせていただいております/優しい眼差し 親しみやすいもの腰/まだ私が生まれない前/亡き父を従え/手回しの蓄音機を肩に/仏の教えを説くため 行脚されたと聞く/八十幾歳の高僧/貴方様は/地上にお降りなされた/仏さま

《口答え》
口答えをするのは/バカにしているからではありません/信じているから/甘えているから/許してもらえるから/口答えするのは/バカにしているからです/愛想をつかして/甘えられなくて/許せなくて/自分の入れ物が小さすぎてはみ出したのです/口答えが癖になって/性格になってしまったら困ります/優しく教えていただいて/目が覚めました/口答えに/早くさようならできますように

《初出勤》
小さい三人の子を/家に置いて/勤めにでようとは/夢にも思わなかった/初出勤にふさわしく/寒のもどりの北風が/容赦なく私に吹き付ける/ピリピリとして痛い/それは何よりもの祝福である/甘ったれを取り払え/身を引き締めよ/寒空の下 コートの衿を立てて/急ぎ足の一団に混じると/ぬくぬくと甘え切っていた私を/ぐいぐいと引っ張る/力強いものがある/職場と家庭の両立/なまっていた体に/どの程度の柔軟性があるか/はっきり言って自信がない/だが 私には与えられた/家庭以外のもう1つの道も/なんと 私は幸せ者であろう/私が生かせてもらえるものが/二つも与えられたなんて

《春の空気》
いくらがんばってみたとて/次から次へと増えていく仕事に/きりというものがない/今日も時間がたりないまま/仕事を残す/不満足のまま帰路に着く私は/いつもすっきりしたことがない/今日は昼間の気温がかなり上がったようだ/パンタロンとブレザーはちょっと暑いようだ/我が家の近くまで来ると/今まさに沈まんとする太陽が/春霞にぼんやりして/菜の花の香が/いっぱいにひろがっている/ああ 春なんだな/株分けしたラッパ水仙が/みんな開き/今日は/チューリップの首がグーンと伸び/ほんのりと頬をそめはじめている/雪柳がいつの間にか真っ白に斜れて/我が家の道は/まるで夢の世界だ/一足飛びに 春一色/ふんわりとつつみこんでくれる/春の空気

《もったいない》
車窓から見える町並に/緑が飛び込んで来た/建物と建物の間にはさまれて/たった一枚残された田んぼ/稲穂がゆれている/ちょうど歩道の高さに並んでいて/もったいない/という気持にさせられた

《大文字草》
どうして 大の字に咲くのですか/土の中にある根っこの時も/小さな種の時も/大の字にさくのですよ/って 教えられているのでしょうか/私は お母さんのお腹の中にいた時から/お父さんのわきの下にいた時から/咲き方を教えられているはずなのですが/まだ よくわからないのです/花びらのいびつささえも気付かず/ぶさいくな咲き方をしているみたい/わたし という花を/より美しく整えて咲きたいのです/だれがみても 大文字草ってわかるみたいに/咲きたいのです/わたし であるように

《くしゃくしゃ》
私の心の中は/くしゃくしゃになった新聞紙/受験を控えた 中三の長女のこと/クラブ活動に励む 次女のこと/学校一おチビさんの 小一の哲也のこと/通院中の主人のこと/無理がきかなくなりつつある お姑さんのこと/そして 私の会社での立場/家での家族の為の私/私の為の私は どこへ行くのか/一枚一枚 くしゃくしゃの新聞紙の/しわをのばして整頓して/すっきりしたいのですけど/すっきりする時は/私を廃業する時かもしれないな/と 思いつつ/今日も何も出来なかった/と 悔みながら/一日が過ぎてしまいます

《くしゃくしゃ その後》
目の前の/どうしょうもない 諸々を/くしゃくしゃに 丸めて/大声で どなって/力いっぱい たたきつけて/はい 好きにしてよ/って/スタコラと/どこかに行ってしまえたら/目の前の/どうしょうもない 諸々が/ある日 パッと/消えて無くなって/ずうっと 夢見ていた/私の やりたいことの/スケジュール表が/目の前に 浮かび上がっていたら/私の五十年/なんとか 生きて来たこと/放っぽり出せなくて/くしゃくしゃに丸めるには/あまりにも 大きすぎて/くしゃくしゃの中に/ちょっときれいな 石ころぐらいは/混じっているかもしれない/などと/貧乏性な私は、捨てられなくて/でも もういいわ/いつでも 捨ててやるぞ/そう 覚悟を決めたら/何でもできそうな気がする/そんな気がするだけ

柿がたわわに

吊る柿がつるされているところ

吊るし柿が干し柿に

***あとがき***
「詩」ってなんだろう。深く考えたこともない。思いつくまま、何かを書き留めておきたい。そんな思いで綴ってきた。学ぶ機会も発表する機会もただの主婦にそうあるわけもなく、これじゃつまらないと思っていた時、その当時小学校1年生の次女を担任して下さっていた今は亡き山村知恵美先生が「詩祭」という会で発表されていることを知った。そもそもの縁は次女が作った詩「はくちょうの なみだ」を「詩祭」に発表して下さったことから始まる。
―中略―
この詩を縁に1978年(昭和53年)、私は奈良市高畑福井在住の寺島先生ご夫妻の「詩祭」の会に入会させていただいたのである。
―中略―
入会させていただいて、1年も満たない時、私はお勤めにでることになった。続けられないのではないかと思ったが、逆に詩作が私の生活の支えになってくれた。諸々の思いは詩を通して浄化され、それが私の生き方の指針のようになり、頑張って生きてこれた。
―中略―
詩集は上手とか下手とかいうのではなく、私の足跡のようなものだから良いのではないかと、勝手な理屈をつけて今回の発刊を思いたった。
宗京容子さんは「年令とともにキラキラしたり、ドキドキすることもなくなりつつある今、以前の私をちょっと振り返ってみるのも楽しいです」と話す。

「奈良新聞『雑記帳』への投稿」
1990年(平成2年)下の息子が中学生になったのと、職場を変えたことで少し心のゆとりが出来てきた。ある日、息子が通う中学校で奈良新聞社の記者の講演があり、その内容についての感想を奈良新聞に送ったことがあった。この時の記者は、現在の奈良新聞社の甘利代表である。又奈良新聞の『雑記帳』の投稿欄を見つけて投稿するようになった。翌年『雑記帳』の投稿者や読者で作る「雑記帳の集い」にも入会した。入会した頃の投稿原稿は日々の身辺のことを書いていたが、志賀直哉旧居に勤めるようになって旧居を素材にした原稿が投稿されている。
掲載はおよそ1ヶ月に1度だが、「志賀直哉旧居」の情景が浮かび楽しみにしている読者が多くなっている。
高山さつきのペンネームで『雑記帳』に投稿された投稿原稿を読むとさらに志賀直哉旧居の周辺などが詳細に想像することができる。
ここに何編か紹介します。

【バイモユリ】2009年(平成21年6月23日)
扇形垂木を施した表門をくぐり、玄関までの石畳を歩む。石畳にピンクの梅の花びらが散り、アセビがかわいい花房を垂れている。ウグイスの鳴き声に迎えられ、私の新職場志賀直哉旧居」での勤務が始まった。
「小説の神様」と呼ばれている直哉は、約9年間この奈良市高畑町の家で過ごし、「暗夜行路」を完結させたという。学校法人奈良学園のセミナーハウスとしての志賀旧居の復元工事は終盤に差し掛かり、五月初めの完成をめどに急ピッチで進められている。この文が掲載されるころは多くの見学者でにぎわっていることだろう。
この旧居は、直哉が設計し京都の数奇屋大工に建てさせ、数奇屋作り(茶室風の建物)を基調に洋風を取り入れ、調和のとれたおしゃれで機能的な建物である。庭には数多くの草木が植えられ、高々と伸びたしだれ桜が満開である。
その中で私の目をとらえたのはバイモユリ。目立たない薄黄緑の花で、編み笠のような花形からアミガサユリの名もあるようだ。鱗形(りんけい)漢方薬の貝母(ばいも)になることから、この名で呼ばれているのだろう。風に任せて揺れるきゃしゃな茎の姿は、何事も優しく受け入れてくれる心温かい母を思わせる。
木々のそよぎ、花々の笑顔、小鳥のさえずりに包まれてお仕事をさせていただける私は、喜びをしみじみとかみしめているのである。
 志賀旧居復元見守る貝母百合

【晩秋の志賀直哉旧居】2009年(平成21年12月2日)
―11月半ば、志賀直哉旧居の庭の楓(かえで)の紅葉は目を見張る美しさだった。緑、黄緑、黄、橙、朱、赤。童謡に歌われている色さまざまにとはこのこと。2階の蔀戸(しとみど)から眺める楓である。
玄関のかなんぼ石の石畳に散り落ちた様は旧居のたたずまいを一層風情あるものにする。前庭の池の辺の柿はすっかり葉を落とし、残った柿の実が数個。塀ぎわのピンクの山茶花(さざんか)が池の黒い土の上に花びらを散らし、存在感を見せる。お茶室への中門へと続く石畳にも白の山茶花の花びらがハラハラと散り落ち、両脇に咲く石蕗(つわぶき)はもうすぐ綿の冠を掲げようとしていた。
中門をくぐると、緑の葉の中の実蔓(さねかずら)がかくれんぼの子供のように赤い実をつけ初めた。中庭の糯(もち)の木の実もきれいな赤。裏庭の無患子(むくろじ)の葉はカラカラと乾いた音を立てて、サンルームの窓際に降り積もる。
高く伸びた唐楓はまるで“空からの贈り物“。可愛い紅色の葉を散らす。3本の柿の木はほぼ葉を落し、渋柿は2階の書斎の窓辺につるした。バサッと音を立てて裏門の塀際に大きな青桐の葉が落ちた。
大好きな旧居の秋は、落葉と格闘の秋。だけど、すてきな行く秋を全身に感じつつ過ごせる幸せを、しみじみと味わっている私である。
 秋雨に 霞みて浮かぶ 御蓋山 旧居の楓 赤々と燃ゆ

【百日紅】2010年(平成22年)10月19日
平城遷都1300年を迎えた古都奈良は、観光客でとてもにぎわっていると言いたいところだが、平城宮跡に復元された大極殿に流れているのか、私の勤務している高畑の『志賀直哉旧居』を訪れる人は、新型インフルエンザで減少した昨年より下回っている。
連日36度を越える暑さが続く8月のある日、前触れも無く荒井正吾県知事が細川護煕元総理とご家族らしき方を案内して見えた。あいにく館長はお休みで、説明を依頼された私は自分にできることをするしかないと覚悟をきめ、案内役を務めさせていただいた。
おそらく細川元総理のお祖父さまが直哉と白樺派でご一緒だったご縁で、遷都1300年の奈良にお越しになったついでに、この旧居をお訪ねになったのだろう。細川さまは2階から見える山の名をお尋ねになった。「阿倍仲麻呂の読んだ歌の御蓋山(みかさやま)です」と答えた私に「月はどこから見えますか」の問いに「平城宮跡からだと御蓋山の方向に見えるのではないかとおもいますが」と自信がなくお答えした。
ご一行は私のつたない説明に耳を貸しながら、各お部屋をじっくりとご覧になられた。奥さまと思われる方が、時間を気になさっていらして、私が焦りつつ各部屋を案内しても、細川さまはあわてたようすもなく、きっちり最後まで説明をお聞きくださり、「門前で記念写真を撮ってお帰りになった。
旧居の2階の客間を眺める庭の百日紅はピンクのかわいい花を元気に咲かせ、またとない光栄に緊張しつつ、説明をさせていただいている私の姿にエールを送ってくれているようであった。

【小手毬】2013年(平成25年)4月23日
私の勤務地、志賀直哉旧居の南庭に、小手毬(こでまり)が植えられている。中国原産のバラ科の落葉低木で、小さな手毬状の花姿からこの名がある。別名鈴掛(すずかけ)とも呼ばれている。
直哉が引越しした後の持ち主が離れ屋を建て、復元工事の際に取り壊された場所に新しい庭が造られた。その庭に植えられた花木の1つである。直哉が住んだ頃に、この花木があったかどうかの記述はないので、不明である。
記憶の中で甦(よみがえる)小手毬との出合いは、30年以上前の師範の進級試験の時であった。
当時ご健在でいらした、法華寺の門跡、久我高照様家元の小池御流を習っていた私は、この花の季節に法華寺の道場で課題に取り組んだ。数十名の新師範予定者が準備された課題に取り組み、お家元の先生方の審査を受けるのである。
いろんな花器が並べられ、小手毬のほかにウリハモミジなども置かれていたような記憶がある。広い水盤に小手毬を真にし、添え花はスカシ百合と何かだった。
私が指導を受けていたN師匠は、私が嫁いだ以前の住所の近くにお住まいであった。私が勤めにでることになって、当時小学生だった次女も手ほどきを受けた。あと少しで師範がいただけるという間際に師匠が亡くなられ、途方に暮れた。
しかし、亡くなれた大学入学の年に師匠の名の下に免除がいただけるという計らいがあり、免除をいただけた。
その師匠の家も売りに出されていて、段々と思い出だけのものになっていく。小手毬の咲く頃は、師匠のことが思い出される花冷えの季節である。

雑記帳の投稿、小手毬

「短歌『寧楽歌人』と俳句『水煙』」
1992年(平成4年)寧楽歌人(短歌)に入会している。奈良新聞に掲載されていた「歌壇」を機会に入会した。(寧楽歌人は主宰が亡くなり解散され現在作歌はしていない)
俳句の会は、「水煙」の会員の出版記念会に参加した時、当時の亡奥野晴山主宰が「俳句を作って下さい」といわれて、宗京容子さんは「難しくて私には無理です」といったら、主宰者は「短歌の上の3句に季語を入れ、下の2句を捨てればいいだけです」としごく簡単にいわれた。なんだか簡単にできそうな気がして1993年に水煙俳句サロンに入会し、現在も俳句作りに励んでいる。しかし、悪戦苦闘の毎日であると話す。

水煙の表紙

水煙の句会

短歌歌集、宗京さんのページ

志賀直哉旧居の秋の庭

短歌集「青丹集」から。35首収録のうち3首を紹介。
―まさぐりて―
「ゆるりゆるり目覚めるごとく薄氷溶け行く朝を鶯鳴けり」
「泣くことも出来ずや地面にひれ伏してまろき紫陽花雨にうたるる」
「紫陽花の移ろう彩に迷いいる我のこころは今日は何色」
俳句は「合同句集『水煙』から。30首から3首紹介。
「大仏線跡をたどりつ土筆摘む」
「水仙や凛と守りし白きもの」
「梔子や無縁仏の群れの中」

志賀直哉旧居の風呂の復元

洗面所の復元

昔の台所、写真から

復元された台所

台所と食堂の境い目にある作り付けの棚ダンス

朝日新聞に紹介された志賀直哉旧居

「筆者の感想」
宗京容子さんは奈良新聞社に2005年から3年間、勤務された。筆者はもうすでに転職していて奈良新聞社に訪問することはほとんどなかった。宗京容子さんとお会いしたのは「雑記帳の集い」30周年の会合に少し顔を出したのが2011年の5月の終りだった。この会合でたまたま隣り合わせに座ったのが縁で初めてことばを交わした。
月日が経って「奈良おんな物語」の人物紹介に「志賀直哉旧居と宗京容子さん」の声がどこからか上がってきたがしばらく保留にしたままだった。
この度ようやく志賀直哉旧居を訪問した。志賀直哉旧居のたたずまい、復元されて見ごたえのある建物に変わっていた。
筆者が雑誌記者をしていたころ、当時は「志賀直哉邸」といわれていたころに何度も訪問したものだった。ただサンルームに腰かけて在りし日、ここに志賀直哉がすわっていたのかと偲んだ。
復元された志賀直哉旧居、すっかり大正ロマンを思わせる瀟洒な作りにも手が込んでいる。工夫と智恵と日本の材木の特徴を生かした建物は人の心をひきつけるものがあった。
宗京容子さんは「もともとここには窓があったのに宿泊施設が壁にふさいでつかっていた。またサンルームと志賀直哉夫人との部屋の使い勝っての良さ、ここには冷蔵庫があったところ、復元工事で氷冷蔵庫も見学者にお見せできるようになりました」と、話される。言葉の数々にこの奈良で高畑町に洋館でもなく日本家屋でもない。志賀直哉自身の設計で建てられた家屋は文豪の感性が随所に表現されていた。
この家に多くの文豪が集って奈良のこと、文学のこと、世相のことなど語り明かされたのだろう。
明治・大正生まれの人たちは無いものから何かを生み出す感性、創造力が豊かな人が多かったと改めて認識をしていた。

この原稿を作成するに当たって筆者と宗京容子さんは同年生まれと分った。筆者は真夏に生まれているが宗京容子さんは晩秋に生まれている。
筆者も田舎で生まれて育ったが宗京容子さんはまたもっと僻地で生まれている。
複式学級には少し驚いた。しかし泥道も覚えている。筆者も舗装されていない国道を歩いて学校に通った。車が少し走り出すと今度は泥が飛んできて服を汚している。傘を足元に持つ癖もいつのまにかついていた。

詩の1つ「口答え」を読んでいて1944年生まれの世代と同感した。
1951年(昭和26年)に小学校に就学している。学校の中には小使いさんといわれて学校の一角に住んでいた用務員さんがおられた。筆者と同年代の女の子は双子で一緒に勉強をしていた。戦争で未亡人になって子どもを連れてここで仕事をしていた。生きていくためには母親たちはどんな仕事もして生きぬいた時代でもあった。
日本の景気が少し上向きになった。
「アメリカ」文化がたくさん入ってきて家庭の中にも入ってくる。
学校教育も民主主義教育といれていく。学校教育にも盛んに使われた。何かものごとにトラブルが起きるとホームルームでも「民主主義的に多数決で決めましょう」とよくいったものだった。この時代はこの言葉が新鮮だった。
民主主義の端くれだが教育を受けた1944年生まれは自己主張ということにも目覚めた。自分の言葉で自分の意見をいう戦後教育を受けた最初の世代である。それでもこれがだめなら反発して運動して何かを動かしていくほどの智恵はまだなかった。ここが戦前1年前の生まれである。
この後に生まれた団塊の世代はまた1944年生まれと違うものがある。

宗京容子さんは、花図鑑といえるほど花のことをよく知っている。
華道を習う中で花の名前を覚えていかれたこと、また自然がいっぱいの都祁村で育ったこと。花と縁の深いお寺で育ったこと。数々の家庭環境があったことも原稿作成していく中で知ることができた。これも宗京容子さんの持っておられる何か。人生の徳ともいえる。
さらに人生の徳は金龍寺と志賀直哉旧居との縁があったことも分った。
「観音像」を通して祖先が宗京容子さんを志賀直哉旧居に導いたと筆者は考えている。この縁を大事にして今後も志賀直哉旧居の案内に務めてもらいたい。
秋に出来た渋柿を干し柿にする優しさも、やはり都祁の生まれと筆者は思った。
これからも奈良新聞の投稿欄「雑記帳」を通して自然のこと、花のことなど多くを紹介してもらいたいものだ。

<写真説明>
1近鉄奈良駅近くの喫茶店、銀杏やでの宗京容子さん(2013年5月7日)。2「詩集」を出版したときの著書の表紙、「大もんじ草」。3志賀直哉旧居の庭でたわわに実る柿、志賀直哉もこの柿の風景を見たことだろう。4渋柿は皮を剥いて吊るし柿にして干しているところ。5干し柿になったもの。6奈良新聞社の生活面の投稿欄「雑記帳」に掲載された一文、この写真を見て親近感がある人は1度投稿してみてはいかがですか。自分の心の襞を書いて年を重ねるのも自分史になります。7水煙サロンが発行する俳句の句集「水煙」。8水煙サロンが志賀直哉旧居で開催した会合で、真ん中が宗京容子さん(2009年11月9日)。9「寧楽歌人合同歌集」第5巻「青丹集」に掲載された宗京容子さんのページ。10志賀直哉旧居の秋の庭。11~15は志賀直哉旧居、復元されたもの、11風呂場、12洗面所、13台所、志賀直哉の子息が保存していた当時の台所の写真、14写真を資料にして復元された、15台所と食堂の間に作られた棚などの物いれ、1つのところは台所で作られた食材がこの棚に置かれて運びやすくされた。志賀直哉の女性を思う気持ちが伝わるようだ。16朝日新聞、2009年12月20日付けで掲載された記事の1部。

[ 2013/06/29 06:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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