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奈良おんな物語《29》「志賀直哉旧居に勤務して慈しんで・宗京容子」中:鄭容順

「金龍寺(きんりゅうじ)」
宗京容子さんは現在の奈良市東部の金龍寺で生まれて育っている。
その金龍寺をここで少し紹介をしておきます。
華厳宗・高勝山「金龍寺」は、山田道安が山田城主として馬場に山城を築き、高山坂に寺院を建立し、東大寺戒壇院末としたのが起源である。
本尊は延命地蔵菩薩であるが、白鳳時代の伝聖観世音菩薩像(重要文化財、奈良国立博物館に寄託中)のほうが有名である。


金龍寺

現在は宗京容子さんの実兄が金龍寺を継いでいる。
天理に伝わる昔話に「高山の観音さん」がある。宗京容子さんは子どものころから「高山のいと」とお年寄りからそう呼ばれていたという。
金龍寺には90段の石段があって石段の両脇にサツキが植えられている。季節が巡るとサツキの花が見事である。
そんなことから宗京容子さんは、後にまた紹介する奈良新聞の投稿欄の雑記帳にはペンネームの「高山さつき」を使っている。どれも生まれて育った故郷にちなんだものである。
金龍寺は、国道369号線へ出る手前で右(北)の山道を上ったところにある。
所在地は奈良市都祁馬場町449 JR・近鉄天理駅より六郷小学校前行きバスで約50分「馬場」下車、徒歩5分。
現在は奈良国立博物館に寄託されている「聖観音菩薩立像」、頭部の大きい短体、眉と眼の間延びした形、弧を描く眉と細目の腫れぼったい眼、小ぶりに引き締まった口元などの表情、やや面長な顔の形は子どものようにあどけない。新様と旧様の併存する作風は白鳳時代の典型といわれている。
台座を含めて樟の一木で造られ、両肘から先と彩色は後補したもの。全体を丸く筒状に作り円筒のような首、胸部と腹部の不分節の肉どり、裳の折り返しの左右対称の図形的に衣紋など飛鳥時代の名残と見られる。
1967年(昭和42年)、国の重要文化財に指定された。この観音像の写真は、
2007年奈良県のカレンダーに印刷された。「悠久の御仏」と説明されている。

観音像

観音像の説明

観音像に関する文書

宗京容子さんはいう。
「中学生のころ博物館に預けられていた聖観音菩薩像が、夏休みに里帰りし、実家の本堂に祀られたことがありました。学芸員が村の人に観音像やお寺の仏像の説明をしているのを聞き興味を持ち、人との触れ合いが好きな私はいつのまにか見学に来られる人に説明をしていました。今、旧居で時々依頼されたら説明をさせていただく時、この頃のことがふと思い出されます」

「都祁の史跡」
―春日神社―
高原の里「都祁」といわれるが都祁下深川には「春日神社」がある。南北朝時代の1580年(至徳3年)に奈良興福寺大乗院の荘園であった下深川庄の下司を勤めた「深川氏」が春日社を勧請した神社、本殿の前にたつが入母屋草葦屋根で市文化「能舞台」です。江戸時代末期まで神事能楽が奉納されていた。

―八柱(やはしら)神社―
「春日神社」から少し西に行き、バス停「下深川」から深川に沿ってバス道路を南に行き次のバス停「上深川」の少し東に「八柱神社」がある。八柱とは高御産巣日神、神産巣日神、玉積産日神、生産日紙、足産日神、大谷売神、御食津神、事代主神のこと。毎年「秋祭」の宵宮にあたる10月12日、重要無形民俗文化財の「題目立(だいもくたて)が奉納されている。
曲目は巌島、大仏供養、石槁山の3曲が伝えられている。

―十九夜講(じゅうくやこう)―
八柱神社からバス通りを西へ向うと都祁荻(おおぎ)で、布目川にかかる。「中ノ橋」の南東、墓地へ上る山際の入口に「十九夜講石仏」がある。「十九夜講」は奈良県東部、大和高原の村々で毎月19日前後の夜に行われた女性の念仏講で垣内(かいと、地域の一区画集団)の嫁が当番の宿に集って、如意輪観音の絵を掲げ、十九夜讃(わさん)を唱え、安産や子どもの成長、さらに女人の救済を祈り、その後で女性同士が会食をしながら日頃の不満や悩みを披露される集会で、如意輪観音への信仰と同時に、各家庭の主婦が忙しい家事や仕事の合間に息抜きをされる場でもあったが奈良では他では見られない。

「生家都祁馬場で暮らした日々」
宗京容子さんは両親が金龍寺に住んだいきさつを話した。
父方の祖母ヒサの実父は大阪の住吉村の村長をしていた。祖母ヒサは今も創業している『住之江味噌本舗池田屋』(元禄年間酒造業、明治初期味噌造り)、(明治・大正・昭和時代、天皇家に献上)の長女として生まれ、森勝三郎を養子に迎え結婚。分家して高級食料品を扱う商店を経営していた。本家は弟が継いだ。父親(池田圭中)は池田勝三郎とヒサの長男として生まれた。父親は高野山で修行して僧侶になる。伯父の奈良元興寺住職水野圭真(勝三郎の弟)は、奈良県山辺郡針ケ別所村大字馬場、現在の奈良市都祁馬場町にある高勝山金龍寺の荒廃を嘆き、復興を発願、現在の位置に本堂を新築した。その寺の住職を任された父はここで宗京容子さんの実母と結婚している。
祖母の弟が奈良東大寺末寺・元興寺の住職、父親から見ると叔父にあたる人が水野圭真である。この伯父の影響を受けて高野山に修業に入ったのが宗京容子さんの実父になる。
祖母の店は明治や森永の商品を扱っていた。戦争で商売替えをしている。
祖父は戦時中の朝鮮半島に渡り軍需関係の仕事をしていたが1943年(昭和18年)に日本に戻ってきている。
そして祖父母と伯母(父の妹)、叔父(父の弟)4人が田舎の金龍寺に帰ってきた。
母親は旧奈良市で製墨業を営む両親の4女として生まれた。金龍寺に嫁いできた当時は、すでに商売替えをしていたかどうかは不明である。(確認できていない。)母方の祖母は、三重県伊勢市の寺院の娘であった。その母は奈良市の元興寺に嫁ぐものと思って、結婚を承諾。まさか山村に嫁ぐなどとは思いもしなかったらしい。街育ちの母親は畑仕事もしたことがなかったが農作業をして家族の食べ物を作った。戦争中、物のない時代、日の当たらない山のところを開墾し、人糞を入れて農作業をしていく母だった。戦時中、家族を守るために母親たちの影の支えがあったからである。
宗京容子さんは旧奈良市の母の実家で生まれ、山村で育ち結婚するまでは地元で過ごした。
小学校の上級生は校舎近くの畑で農作物を作った。中学生になると全学年が開墾して農作物を作る。奈良県立山辺高校に通学したが高校でも農業科の生徒は作物を作っていた。
僻地に村外から赴任してこられる教師は下宿、そのころ宿直の教師は学校の宿直室に寝泊りをしていた。学校に用務員さんが住んでいて宿直教師の食事を作っていたものだ。ある時、用務員さんが病気で入院されたとき、中学生の容子さんたち女生徒が交代で教師の朝ご飯を作りに朝早く学校に行ったこともあったという。
僻地の学校の小学校は複式学級、1・2年、3・4年、5・6年が同じ教室で学んでいる。1年生が授業していると2年は自習、2年が授業していると1年は自習、自習をしている間、1年は2年の授業を聞いて自然に上級生の学習をした。
この頃から宗京容子さんは「詩」を書くのが好きだった。ラジオで小学生の詩を発表する番組があって、下級生が「私は雨が大嫌い」という詩に校長先生が「お百姓さんの草履がびしょぬれになるから」と添削され、その詩が放送され宗京容子さんの「詩」は採用されなかった。
またある日、宗京容子さんは「さくら」という題の詩を作った。実家の何本かの染井吉野が寿命で花つきが悪くなった。桜の木の短い命のことを書いた。「どうしたことだろう。この桜の花は」という書き出しであった。これは役場に勤務していた父親が広報担当であったこともあり、広報紙に掲載された。公に知られたのはこの詩が最初である。
高校時代は1級下の女子高校生と「詩」の交換ノートをしていた。「詩」のノートは容子さんとその人との間で行ったり来たりしていた。そのノートは今、宗京容子さんの手元になく、今はその人とも音信普通になってしまった。
子どものころからリズムのある「詩」を好み木琴で作曲をしたりもしていた。
またスポーツは中高校とバレーボールと陸上部で砲丸投げをしていた。奈良県の高校で砲丸投げをして活躍、社会人になっても活躍していた。しかしそれでも書くことは好きで、歌を歌うことも好きで結婚してからママさんコーラスにも所属したこともあった。
高校は自転車で自宅から7キロ、片道40分の道のりを通学した。高校3年生の夏、バイクの免許を取った。時々校則違反のバイク通学をしたこともある。冬になると雪が積もって道路はコチコチに凍結し、雪がなかったら今度はドロドロの泥道を通学した。

お寺で育った宗京容子さんの思い出はつきない。
幼稚園や小学校の低学年の遠足は、金龍寺というのもあった。
「遠足」で来て見ると我が家「金龍寺」という。また子どもの頃から僻地ということで外国からのお客様や、本職の画家たちがよく学校に来られた。
日本語と外国語の同時通訳の光景も見てきた。また父親は役場で教育委員会の仕事もしていたので学校で何か行事があると「お父さんが挨拶していました」と話す。
またボランテイアで、中古だったが自費で幻灯機を購入、田舎の子供たちを集めて民話の「傘地蔵」などスライドでよく見せていた。
「僻地だったので毎年、夏休みには集団検診が行われた。金龍寺は宿屋にもなり、医師、保健婦、医学生の10数人の人たちの食事の世話を、家族でお世話をしたものです。
また子供たちの家庭訪問をする教師たちは教師の息抜きにもなりました。私の家の家庭訪問はいつも最後で、お酒の好きな父親は接待をしていつも遅くまで飲んで話していました。
結婚するまでは、飛んだりはねたり歌ったりの毎日でした。
親の庇護で楽しく過ごしていました。両親や地域の人たちの愛情をいっぱいに受けて育ち、母親から思いやりと慈しみの心を育まれ、苦労することなく育ち、結婚してからは姑から忍耐と努力を学ばせて頂きとても幸せな人生です」と話す。

<写真説明>
1華厳宗・高勝山「金龍寺」。2年奈良県のカレンダー(2007年)に入れられた「聖観音菩薩立像」。3「聖観音菩薩立像」の説明。4著書に掲載された「聖観音菩薩立像」の説明文書


[ 2013/06/27 06:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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