ジャーナリスト・ネット公式ウエブサイト

ジャーナリストの取材記事、論考などそ掲載するブログ
ジャーナリスト・ネット公式ウエブサイト TOP  >  スポンサー広告 >  鄭容順 >  奈良おんな物語《29》「志賀直哉旧居に勤務して慈しんで・宗京容子」上:鄭容順

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

奈良おんな物語《29》「志賀直哉旧居に勤務して慈しんで・宗京容子」上:鄭容順

「プロフイル」
宗京(むねきょう)容子さん(奈良市在住)は1944年11月、奈良県山辺郡針ケ別所村大字馬場、4人兄弟の2番目に生まれた。後に都祁村、現在は奈良市都祁馬場町、生家は東大寺の末寺の華厳宗・高勝山「金龍寺」です。地元の小・中学校から奈良県立山辺高校を卒業後、奈良市内の企業に就職した。


宗京さんの案内説明

1968年(昭和43年)に結婚し、奈良市内に夫の母親と同居して住んだ。
専業主婦をした後、子育てをしながら、事務機器の会社、印刷会社と14年間勤務した。、退職後60歳で奈良新聞社に派遣職員として3年勤務、奈良新聞を退職した後、病院の看護師助手もしたが、長年の親睦を重ねていた方のご縁で、2009年(平成21年)に学校法人奈良学園セミナーハウス・志賀直哉旧居に勤務することになり、今に至っている。

奈良学園が発行した冊子

「志賀直哉旧居」
学校法人奈良学園が「志賀直哉旧居の復元」という著書を2009年に発行している。西川彭理事長が「志賀直哉の旧居と奈良学園」について掲載されている文書をここで紹介します。
<学校法人奈良学園・西川彭理事長>
―志賀直哉旧居は白樺派の文豪志賀直哉が昭和の初期、自ら設計して建てたもので、代表作「暗夜行路」を完結させるため約10年文筆活動を続けたところです。
この旧居を、なぜ学校法人奈良学園が所有し、これまで保存と一般公開をしてきたのか。その辺の経緯については学園史「奈良学園20年のあゆみ」に詳しく述べられています。
『本学では昭和53年6月27日、奈良市高畑町にある厚生年金飛火野荘を厚生省から譲り受けることに決め、売買契約を結び奈良文化女子短期大学のセミナーハウスとして買収した。
この建物は志賀直哉がみずから設計して建てたもので、昭和13年(1938年)に鎌倉へ移住するまでここに住み、小説「暗夜行路」を完結させるなど文筆活動を続けた。その後、所有者が変わり、昭和28年(1953年)には厚生省が買収して厚生年金保養施設として利用されるようになったが、建物の老朽汚損が激しくなり、建て替え計画が持ち上がってきた。
志賀直哉在住当時は、滝井孝作、武者小路実篤、小林秀雄、尾崎一雄、梅原龍三郎、堂本印象ら当時の文人、画人多数が足しげく出入りし「高畑サロン」としても知られていた。
こうしたことから、厚生省の改築計画に対し「文豪ゆかりの建物を保存せよ」の声が高まり、全国的な署名運動が展開され保存運動は活発なものとなった。
本学はその名称に「奈良文化」と冠しているように、奈良県内に数多くの散在する文化的遺産を歴史的、美術的、国文学的見地に立って研究することを特色としてきた。
こうした趣旨からも、近代文学の頂点に位置する志賀直哉旧居を本学の手で保存し、学生の教育に役立てることは「新しい奈良文化」を研究するうえに意義深いものがあるので、昭和52年(1977年)3月28日、奈良県知事に買収の意思のあることを申し入れ、同年10月5日、厚生省に買収を申し入れていることを公表した。
―中略―
邸宅は志賀直哉みずから設計し、京都から大工を呼んで建てさせた数奇屋造りの建物で、買収した当時は専門家に言わすと「いまが修理最後の時期」というほど傷んでおり、老朽化は予想以上のものがあった。
本学は買収と同時に株式会社奥村組と契約、大々的な修復工事を行ったが、これを機会に、志賀直哉が新築した当時の姿に修復することにした。志賀家の御好意で、建築当時に写した各室などの写真を御寄贈いただき、また、当時建築に関係した人々や志賀邸に出入りしていた人たちの意見を聞くなどして、建物の造作や土塀などの復元に努め、志賀直哉が建てた当時の姿に戻し、昔を今に返した。
本学では昭和53年11月18日からセミナーハウスとして使用する一方、一般希望者にも見学させており、開館以来現在(昭和59年=1984年)3月末)までの見学者は15万6千371人となっている。
―後略―
このように経緯で本学園は昭和53年に志賀直哉旧居を取得し、大規模な修復工事を行った上、開館してきたのですが、その後30年という時が経過したため、建物のみならず土塀の傷みも激しく、今回大々的な修繕が必要となってきたのです。
時あたかも、これまで志賀直哉旧居の保存運動に携わってこられた「白樺サロンの会」(代表呉谷充利相愛大学教授)が、平成20年(2008年)10月に「志賀直哉旧居保存運動30周年メモリアル」を開催されることになりましたので、呉谷教授と相談の上、修繕方法を検討することにいたしました。
今回の修復工事は、株式会社奥村組と宮大工山本吉治氏に依頼し、前回昭和53年の修復工事よりさらに徹底した調査を行い「直哉の時代に戻す」をテーマに、建築当時の姿に復元する改修工事を行っていただきました。改めてご尽力いただいた関係者の方々に厚く御礼申し上げます。
平成20年5月3日に竣工し、その日より一般公開をいたしましたが、出来るだけこの旧居を活用して頂き、ここ高畑の地が奈良近代文学の遺産継承と、新たな文化発信の拠点として発展されることを強く念願しているところです』

志賀直哉の著書と資料

志賀直哉が使った机と椅子と庭

書斎から見た庭

志賀直哉旧居の書斎のところに置かれた案内を記述しておく。
(机は北向きに置かれる。直哉は「若い頃、書斎は北向きが好きだった。明る過ぎると気が散るので机の上だけ明るく、他は薄暗いというような窓の小さい部屋が好きで、我孫子でも奈良でもそういう書斎を作ったが年のせいで、今はさむざむとした書斎は厭になった。奈良でも仕舞いには2階の南向きの6畳を書斎にし、北向きの書斎は夏だけしか使わなくなった―志賀直哉「私の書斎」―」

修復監修を担い、「志賀直哉旧居の復元―学校法人奈良学園」著書の編著は呉谷充利さん(相愛大学人文学部教授)、B5版114ページ建て、多くの写真も盛り込んで編纂された。呉谷充利さん自身も「志賀直哉における文学とすまい」を寄稿している。他に弦巻克二さん(奈良女子大学文学部教授)も「志賀直哉と奈良に住んだ人々」で寄稿、他の方の寄稿もあるが「大工棟梁コメント」として山本吉治さん(株式会社山本工務店棟梁)の寄稿を紹介します。

<株式会社山本工務店・山本吉治棟梁>
『志賀直哉旧居に見られるように、日本の伝統的木造住宅は「木の癖」や「材質」を生かして組み立てられており、特徴のひとつとして、解体して修復復元をすることができます。
この建物も長年の経緯から傷みが出ていて、特に土台廻りの白蟻被害と腐食のため、建物を維持することができない状態だったので、大掛かりでありましたが、昔からある「上げ舞」という工事手法をとり、家全体をジャッキで持ち上げ、土台を替え、柱の腐り部分を切って「相欠き鎌継ぎ」で継ぎ足しました。
元の材料を捨ててしまうのではなく再利用し、尚且つ年数に耐えるように、これらの仕口や継手は、場所に応じた組み方を選び、金物で固めてしまうのではなく、強さと粘りが出るように、シャチやコメ栓を使って工夫しております。
一方、直哉氏が当時住んでいた姿に戻す修復工事にあたり、寄贈の写真とともに重要な資料となったのが、柱や壁に残っている鑿(のみ)で掘られた穴や目地といった当時の職人達の仕事跡でした。特にこの建物が歴史の中で米軍に接収された後、旧厚生省の宿泊施設になるというように、持ち主が変わるにともなって改築されてきた建物ですから、どの時代のものかを判断することが難しいものがありました。しかし、1枚壁をめくる度にタイムカプセルが開けるようにいろいろな仕事跡がみつかり。当時のものと断定できるような発見をした時はうれしくて本当に楽しい思いをしました。
志賀直哉旧居は、これからも皆様に愛され。益々深みと趣きを増していくことと思います。そして、数十年後に行われるであろう修繕の時、私共の仕事に目を留めて下さる方がおられれば大変光栄なことだと思います。多くの方々にご協力を頂き、無事竣工できましたことをお礼申しあげます。

天井にも細工

窓も洒落ている

志賀直哉旧居


「志賀直哉旧居の見学」
筆者は近鉄奈良駅からタクシーに乗って志賀直哉旧居に向かった。
奈良公園の飛火野の南側、四季亭と書かれた看板の横をタクシーが登っていくと直ぐにあった。ここが近道だったようだ。筆者は雑誌記者時代になんどか市内循環バスに乗って破石(わりいし)町で降りて東に向かって歩いていった。
転職してから行かなくなって漠然とした道順しかわからないのでタクシーに乗った。

玄関から門を撮影

タクシーの運転手は「ここです」といわれて降りて見ると高畑町界隈で昔のロマンの足跡が伝わる佇まいがあった。修復工事をされているものの、ここには昭和の初めの時代があった。
志賀直哉旧居を訪問すると宗京容子さんと一緒にもう1人の女子職員、そして北森貞次館長さんが迎えて下さった。
皆さんの志賀直哉旧居への思い、熱い気持が伝わってくる。認識不足の筆者は恐縮するばかりだった。
宗京容子さんが志賀直哉旧居の各部屋を案内して説明して下さった。
玄関に置かれた品の良い陶器の壷、「これは志賀家から贈られたもので、直哉が住んでいた当時、サンルームの外に傘立てとして使われていたものです」と、説明して下さる。

玄関の壷

居哉直の朱墨

2階に上ると初めてみる趣のある佇まい、そして何よりも窓から見える若草山と御蓋山の景観に感嘆した。2階の八畳間には「観音像」が置かれていた当時の写真に、客間として使ったとの説明書きがあった。谷崎潤一郎が購入した「観音像」(弘仁仏>、後に志賀直哉に贈られたというそれである。
厚生省が管理していた宿泊施設はところどころ改造されていて、構築物などでふさがれていた部分を今度の修復工事で取り除くと、当時としては最新の造りがあった。塞がれた壁を外すと家の設計の氷冷蔵庫が置かれていたところだった。資料と志賀直哉の家族の証言で復元された氷冷蔵庫が備え付けられていた。サンルームに行くと当時使っていたという志賀家から送られたクローバー型のテーブルも置かれている。当時としては大変珍しい備え付けのソフアが置かれていた。宗京容子さんが筆者に説明するガイドが分りやすいのか、見学に訪れた人たちが一緒になって聞いていた。サンルームに座って少しの休憩、落ち着いた佇まいについ長話になりそうだった。

茶室の水屋

氷冷蔵庫

サンルーム

クローバ形のテーテーブル

宗京容子さんは「ご縁をいただいて志賀直哉旧居で仕事をしていく中で四季折々の庭に咲く草花に触れる楽しみや、秋になるとたわわに実った渋柿を干し柿にする楽しみもあります。人と触れ、話すのが好きです。生まれて育ったのが奈良の山村にある金龍寺の娘として育ちました。地域の人が集まる場所であり、遠方からの見学者もたまに訪れていました。志賀直哉旧居に勤務して見学者に会ってお話をしたりすることは、生れ育ったお寺での人さまと接することにご縁があったように思えます。現在は自宅から徒歩か自転車で四季の移り変わりの景色を眺めながら志賀直哉旧居に通っています。そしてここでは庭の草花に元気を頂いています」と、話す。

庭

春日山などが見える庭

「観音像について」
観音像について、浅野詠子著書、2011年10月に講談社から発行された「奈良の平日―誰も知らない深いまち」に記述されているので著書の内容を紹介します。
<観音像がとりもつ縁>
細い路地を挟んだ中村邸の隣は志賀直哉の旧居。志賀自らが設計し、京都の名工が1929年(昭和4年)に建築した。ここで『暗夜行路』の後編が書き上げられるという。この建築をめぐっては面白いエピソードがある。家を建てる2年ほど前、志賀は谷崎潤一郎と連れだって登大路町の骨董店「森田一善」にやって来た。店には十一世紀初めの作とされる木彫りの観音像があり、谷崎がたいそう気に入って、いまの金にして1千万円ほどの大枚をはたいて購入したという。実は志賀も「ぜひ欲しい」と切望していたのだがあきらめ、その代わりに高畑町の地に邸宅を建てるという話だ。
―中略―
奈良市民の梁瀬健さん(大阪教育大学名誉教授)によると、梁瀬さんは当初、あの観音像は谷崎の子孫が保存しているか、あるいは文学館のようなところにあるものばかりと考えていた。ところが図書館から借りていた志賀直哉の来簡集の貸し出し期間が切れる1日前のこと、何気なく開いたページに、谷崎が志賀に出した手紙があった。
それによると、あの観音像は神奈川県大磯町の安田善次郎の子孫が「先代の追善にお堂を建てたので本尊にしたい」と願い出てきて、谷崎も譲り渡してもよいと思っている。
しかし当初、安田財閥の関係者に谷崎が譲ることになっていたがこれは成立せず、かねてから「欲しい」と懇願していた志賀がついに手にしていたのである。
―中略―
では観音像は一体どこへ。谷崎から志賀の手に渡った観音像、志賀は奈良市高畑町の家を引越しとき、当然、大事な観音像もいっしょにもってでている。それで簗瀬さんは志賀の二男で東京に住む直吉氏に手紙で尋ねたところ、電話がかかってきて「太平洋戦争中までは都内の家にあったが、戦後、生活のために売ってしまった」と教えてくれた。直吉さんは当時、まだ学生で、父がだれに売ったのかまではわからないという話だった。
簗瀬さんは北区にある渋沢栄一記念財団が発行する『青淵』(708号)に「観音像は今いずこに」の題で寄稿し、ひたすら情報をまっていた。
足かけ5年、ついに朗報が来た。それも本書『奈良の平日』がまもなく校了という2011年9月14日、「行方がわかりましたよ」と、梁瀬さんから私の家に電話がきたのだ。早稲田大学の「會津八一記念博物館」が所蔵しているという情報を知人から得た簗瀬さんは、志賀直哉旧居が保存する観音像の写真を博物館に送り照会を求めたところ、まちがいがないという。
志賀が誰かに売った後、昭和40年代後半に実業家・富岡重憲の手にわたったようで、旧富岡美術館が都内で所蔵した後、2004年、早大に寄贈された。像高は95センチ。

志賀直哉旧居の観音像の写真

見学者と宗京さん

見学者

「手と足に不純な直しがあったのを明珍さんにとって貰い、今は大変よくなった」というくだりが志賀直哉の小説「早春の旅」に出てくる。明珍さんとは、奈良の彫刻家・明珍恒男氏のことで、仏像の修繕など卓越した技術で知られた人物。明珍氏が修復し、右腕の先などが取り払われたさまに志賀は感嘆した。
文豪2人が見そめた観音像は奈良市登大路町の骨董店にあった。いまは奈良商工会議所のビルが建っているあたりだ。

<写真説明>
1宗京容子さんが案内して説明しているところ、掲げている「居哉直」について『書は右から読みます。昨年(2012年)の秋、志賀家から寄贈されたものです。画家の熊谷守一の書です。志賀直哉が富岡鉄斎の朱墨を熊谷守一に寄贈してものです。朱墨で書いています。これは志賀直哉が東京都渋谷の家の新築祝いに贈られました偏額です。渋谷の家を取り壊すことになりましたことから旧居に相応しいとしいうことで奈良の住まいだったこの旧居に寄贈されました』と説明をした。2志賀直哉旧居の復元完成式を記念して「学校法人奈良学園」が発行、編著・呉谷充利『志賀直哉旧居の復元』。3志賀直哉著書の資料などが保管されている。4志賀直哉が使っていた書斎の机と椅子。5部屋から見た志賀直哉旧居の庭。6志賀直哉が使っていた書斎の天井。宗京容子さんは『書斎は和洋折衷の作りで天井は数奇屋造りです。煤竹と葦を使い、梁には殴りを入れている。殴りとは材木の表面を手斧で削って凸凹をつけて仕上げることですが志賀直哉と大工仕事の家にかける真髄が見られます』と説明をする。7窓も洒落ている。8玄関から見た土塀の門に通じるところを撮影。9玄関に置かれた壷、壷の説明は本文で宗京容子さんの語りを参照。10「居哉直」、写真説明1を参照。11、茶室の水屋、または水谷ともいうと宗京容子の説明です。12志賀直哉が使っていた氷の冷蔵庫、戦後、宿泊施設がここを壁にして冷蔵庫が壊された。復元工事で志賀直哉が使っていた昭和の初めの氷冷蔵庫がお目見えした。13サンルーム、昭和の初めにモダンな造り、人が集まる場所で家族が集まるところだった。14サンルームに置かれたクローバの形をしたテーブル、子息が復元完成の記念として当時使っていたものを寄贈された。15・16庭、部屋から春日山などが見える。17志賀直哉旧居に置かれていた観音像の写真。18見学者は宗京容子さんの説明を聞き入っている。19見学者たち。

[ 2013/06/25 06:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。