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メデイアウオッチング「文化など―残していくもの」:鄭容順

最近、時代を越えて古き時代の物や伝統文化に触れる機会があった。
1つは昔の明治時代から昭和の戦後の文房具、1つは江戸・明治・昭和時代の子どもの遊び道具、もう1つは今も地域の人たちが受け継ぎ守り伝承して保存されている木津川市の文化財・布団太鼓の御輿である。


文具全体1

文具2

最初は勉強道具の紹介です。
入学シーズンに合わせて大和郡山市にある県立民俗博物館では「昔の勉強道具―今とどう違う」の展示が開催されている。会期は4月2日から5月19日まで。展示は教科書や算盤など50点、江戸時代から昭和の初期の時代に使った勉強道具です。
江戸時代、寺子屋で使われた「手習い帳」は墨で重ね書きされた習字、何度も同じ用紙の上で練習をしたのか何が書いてあるのか読めないほど真っ黒になっている。昔は紙が貴重だったので1枚の紙に練習を重ねて使い切った様子が伺える。

文具5

明治36年(1903年)から発行され始めた国定教科書「尋常小学校読本」も展示された。一期教科書そして二期教科書(1904年)が並び子どもが書いたのだろうか。教科書の余白には軍人や大砲の落書きも見られた。
戦後は1954年(昭和29年)からの教科書が展示されていた。
柳田国男監修(東京書籍)の「あたらしいこくご」は戦前と違ってカラー刷りになって「教育現場」の取り組みが伺える。
この時代に小学校に就学していた者は懐かしい教科書だ。戦後、就学した世代は多少、教科書の内容は違うもののつい見入ってしまう。

筆者は4月28日、この展示会を見たいと考えて県立民俗博物館を訪問した。
展示されたコーナーはほんのわずかのスペースだったが戦後まもなくの教科書を残しておられた人がいて同博物館に寄贈されたのだろう。
筆者が習った時代の1950年(昭和26年)の教科書でなくて昭和29年、筆者は小学校4年だった。中国から引き揚げてこられた子弟たちが日本の小学校に転向してくる時代だった。音楽の時間が多く、たくさんの歌をこの時代に学んだ気がする。
「こくご」の教科書、筆者のときは「まさおさん おはよう はなこさんおはよう」だった。入学式は決まって桜の花が書かれていた。多少、時代は違うが描かれている中の絵、当時の生活スタイルはそう変っていないので懐かしく見ていた。

文具3

文具4

文具7

文具8

当時、使っていたオルガンも展示されていた。
奈良県立民俗博物館

次は「奈良からくりおもちゃ館」です。
奈良市陰陽町に昨年の4月に開館した「奈良町からくりおもちゃ館」がある。
この辺りは昔から住んでいる人が多い集落で古民家が多く見られる。
同おもちゃ館も古民家を改造してできたものです。

からくり、建物1

からくり2

この周辺でその昔、子どもたちが遊んだおもちゃ、からくりのおもちゃも多く発見されたことから同館がオープンされた。
建物は「松利(まつり)という料理屋の離れとして明治23年(1890年)に建てられたもの。所有者であった松矢氏より、土地・建物を寄贈した。古い町家を残しながら「展示と遊びのスペース」(母屋)と、庭には新たに体験工房を建てた。見学に訪れた子どもたちは祖父母、親子連れで昔のおもちゃで一緒に遊ぶことができる。お手玉におはじき、メンコにケン玉など多くの昔のおもちゃがある。大人は昔懐かしいおもちゃを手にとって遊び、子どもたちは見たこともないおもちゃに新しい発見をしたのが目を輝かせている。
工房では体験イベントが行われ、木・竹・紙・土・糸などの自然素材を使って遊ぶ「からくりおもちゃ」を実際に作ることができる。ここも江戸時代から昭和までのおもちゃが取り揃えておられることからまた新発見をするところです。

からくり3

からくり6

からくり4

からくり5

4半世紀にわたって江戸時代のおもちゃを研究してきたのは奈良大学の名誉教授・鎌田道隆さん。調査・研究した資料とおもちゃ618点が寄贈された。資料をもとに奈良大学の学生たちが当時使っていたからくりおもちゃを再現させている。
紙や木で作ったからくりおもちゃは大人でも虜になってしまう。
ちなみに「陰陽町」の町名の由来は、天体の動きなどで社会や人間の吉凶を占う陰陽師が住んでいたことからつけられたもの。地元では「いんぎょまち」と呼ばれている。他に古民家を利用した建物で近辺には「細川家住宅」「森家住宅」「なら工藝館」「杉岡華邨書道美術館」がある。

筆者が訪問したのは大型連休の5月4日、古民家の座敷部屋に置かれた座敷机の上には奈良大学の学生たちが資料をもとに再現したおもちゃが数々並べられている。そして手に取って遊ぶことができる。老若男女が一緒になって笑い楽しく感動して遊べる所です。

奈良からくりおもちゃ館

 
最後は伝統文化・木津川市指定文化財・御輿太鼓です。
地域の人たちの心意気と愛情で守り保存している伝統文化・木津川市の御輿太鼓は木津川市文化財に指定されている。
木津御輿が4月27日から29日の3日間、ショッピングセンター・イオンモール高の原に出張しての展示、担ぎが披露された。

みこし1

みこし2

筆者はたまたま身内のフエスブックで知って28日、午後から担ぎの披露される時間に合わせてショッピングセンターに駆けつけた。
御輿の担ぎの披露を見た。

みこし3

みこし4

1トンの御輿を100人程度で担ぐ。その担ぎ手の心意気と太鼓の音、子どもたちの声が響いて昔から伝わる御輿の披露は圧巻だった。
木津の秋祭りに担ぎ出される布団太鼓の御輿、名称は「御輿太鼓」というが地元では「おみこし」といっている。昔は9基が秋祭りなると町の中を担いで練り歩き3つの神社に詣でていた。現在は5基が地域の人たちが一致団結して運行を行い町の財産、文化財を伝承している。
古来より五穀豊穣祭として地元はもちろん近辺地域の人たちにも親しまれ御輿蔵が各地域にある。そして秋祭が近づくと1~2週間ほど前から神社、宮座、氏子の方達で準備していく。解体された御輿を御輿蔵から出して組み立てていく。布団太鼓の布団、小物の欄間など家が1・2軒買えるというほどの高額もの。神経を集中して皆が力を合わせて蔵出しをして組み立てていく。
秋祭りは「宮入り」といって御輿太鼓が担ぎ出され地域にある3つの神社の拝殿廻りをする。
文献資料によると1804年~17年頃(文化元年~14年)で最初は太鼓自体を担いだ説がある。このころは5基の御輿とされている。1859年頃(安政6年)御輿は7基と確認されている。現存している敬神組、拝神圑、義友会、西町が含まれる。1871年(明治4年)社町に御輿太鼓ができる。その後、追って小寺町、川端町とできて全10基になった。
1924年(大正13年)、10基のうち川端町と一丁目が合併して神祐組になって全9基になった。御輿太鼓は敬神組・拝神團・義友会・西町・四丁目・二丁目・社町・小寺町・神祐組となった。
1985年(昭和60年)~現在は時代の変遷で御輿太鼓も変わった。
1985年代に入って四丁目・神祐組・二丁目が運行を中止、太鼓台組合を脱退し全6基となった。そして2006年(平成18年)西町が太鼓台組合から脱退、現在は5基となる。

1970年代の後半から地域で御輿について問題になり始めた。若者たちが勤め人になり自営業と農業をする人などが少なくなって担ぎ手が減少していく。他府県から学生アルバイトを雇っての担ぎ手に後継者問題が生じてきた。そして御輿太鼓が減少していく。それでも町の文化財産は継続して後継者と地元民に伝承していかなければならない。町の人たちは使命感で地域が助け合い心を1つにして御輿太鼓5基を守ってきた。
近年、都市化した地域では田舎の祭も見られなくなっている。
そうした事情を踏まえて新興住宅街のイオンモール高の原・ふれあい広場に木津川市文化財の御輿太鼓が持ち込まれショッピングに来られた人たちにお披露目をした。木津の御輿蔵からショッピングモールまで移動するのがまた至難の技という。ここに運ばれた御輿は敬神組と社町の2基です。敬神組の関係者に運搬を聞くと御輿太鼓はすべて人力で運んだ。棒台は4トントラック、本体は3トンのキャリヤカー、小物は軽トラックで運ぶが神経を集中させて注意をはらわないといけないのが欄間、壊れるととんでもない費用がかかることと欄間を彫る宮細工もいなくなっているという。それでも昔の日本の祭、伝統文化を伝えたいと地域の人たちは一致団結して御輿蔵から出して移動しまた組み立てていく。終るとまた解体して御輿蔵に運んで保存していく。
以前の御輿は地元の御霊神社、岡田神社、田中神社に宮入(拝殿廻り)をして奉納していたが現在は祭礼は20日、21日に行われるが太鼓台の運行は10月第4土曜日とその翌日となった。10月20日が土曜の年は祭礼と同日に運行している。また御輿の運行は午後4時までとされている。

木津川市・御輿太鼓

筆者は木津の御輿がある木津町で育った。毎年10月20日・21日は木津の秋祭、母親は祭に参加しなくても商いは休んで家にいた。学校は2時間授業だった。2時間の授業を終えて自宅にもどると筆者が住んでいた地域の御輿、敬神組が御輿蔵を出て近くにあった天王神社まで運行している。学校から戻るころ御輿が筆者の自宅の前を担がれて練り歩いている。
子ども心に晴の日の御輿、晴れやかな御輿を見るのが大好きだった。
太鼓の音、子どもたちが「よいとまかせ」と言葉を出しながら太鼓を叩く。それに応えて大人たちは「よいよい」と掛け声をかけていく。
2日目の夜は提灯行列で神社から帰ってくる御輿がまた見ごたえがあった。木津町の町の中心だった本町の交差点、夜の帳の中で繰り広げられる御輿を担いでのその技(サーセ)を発揮する。心と力を1つにしないといけない。この日の提灯行列を最後に御輿は右に左にと分かれて御輿蔵に戻って行った。2日間の祭を終えて来年を楽しみにした。
結婚して子どもが幼い頃は神社に駆けつけて御輿を見たものだったが子どもが大きくなると行く機会がなくなっていく。そして仕事を持つとなおさらいけなくなった。おおかた30数年ぶりにショッピングセンターで見た木津川市の御輿太鼓、久しぶりに聞いた太鼓の音、子どもと大人たちの掛け声、懐かしい故郷の郷愁に筆者の目から涙が出ていた。

この涙は何なのか。
もう1度、掘り起こして残していこう。自然と人が暮らす生活、昔の人たちが農耕文化と向き合い喜怒哀楽を地域の文化を通して表現してきた。それも地域が協力して心を1つにしないとできない。地域の親睦ができていた。
筆者が住んでいた地域の御輿「敬神組」、担ぎ手が今も一致団結している。
地域文化の伝承にひたすら努力をしている人たちの心に響くものがあった。地域の人たちも昔の人たちから受け継いで残していく。これは地域にとつての財産と考えて守り伝えておられる。その1つの活動がショッピングセンターでの披露、運送が大変でも人々に紹介して日本の生活や美、自然との調和を教えているようだ。
こうしたことは1985年代あたりから四丁目の御輿は木津中央交流館・いずみホールで展示、二丁目の御輿は京都府立山城郷土資料館にて展示、神祐組は御輿蔵に保存されているものの保存状態で組み立ては不可といわれている。

木津川市の文化財、木津の御輿太鼓に触れた興奮の余韻に浸っている近日、千里中央にある国立民俗博物館を仕事で訪問、仕事の内容は他のものだったが6月15日~11月23日まで開催される「日々のくらし―祭りと芸能」のパンフレットに気がついた。パンフレットには「いつの時代、どんな地域でも人々の暮らしには、日々同じように繰り返される営みがある一方で、祭や年中行事などの普段とは趣を異にしてハレの機会があり、これは日本列島においても例外ではありません。各地ではさまざまな祭りや年中行事がおこなわれ、そこで多種多様な芸能が演じられてきました。こうした祭りや芸能は、願いや祈り、美や快感、興奮への志向といった人びとの豊かな精神活動の姿をつたえています」と、記述されている。

木津川市の御輿太鼓と神社拝殿廻り、手のひらで担ぐ「サーセ」をして神社のの神様に見てもらう。力の技の見せ所だが担ぐ人は心に祈りを込めて担いでいる。木津川市は片田舎だが筆者の子どもの頃はまだまだ田園が広がっていた。秋の収穫を終えたところ、これからのところの田園の中、輿を担いで歩いていく。ハレの日に相応しい景色を見せていた。なんとも華やかな御輿に地元が1つになって祭を盛り上げた。伝承して守っていくのは大変だが木津川の文化財として木津の御輿太鼓は2002年(平成14年)に「木津御輿太鼓祭り」として木津無形民俗文化財に指定された。

今回は古い時代の物に触れた物にした。時代を遡って人々の暮らしや生活、まつりごとなどが今後の生きる歩みにヒントがあるかもしれない。そう思って今回は古き時代を紹介した。筆者は在日韓国人2世だが木津川市山城町で生まれた。6歳から木津町で育ち一貫して日本公立学校の教育を受けた。1世の父親は民族のアイデンテイテイを確立していたが日本の地域文化もこよなく愛した。娘の筆者も父親と同じ道を歩いているようだ。

<写真説明>奈良県立民俗博物館の「昔の勉強道具」、「奈良からくりおもちゃ館の江戸から昭和時代のおもちゃ」、「木津川市の御輿太鼓、ショッピングセンター・イオンネールでの御輿のお披露目」。







[ 2013/05/14 06:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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