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奈良おんな物語《27》「二つの国・『短歌・時調に思い』廣岡冨美」下:鄭容順

このページは廣岡冨美さんが生まれ育った浦項邑にある延日の海は生涯、忘れることのない韓国を歌集にした心の語り、叫び、秘めたものをこの章で紹介していく。
「秘すれば花」とは廣岡冨美さんの生き方に見えてきた。


教師をしていた廣岡冨美さん。教壇に立つと言葉を多くを語り勉学を説いたが、個人のその人はもの静かな人で多くは語らなくとも「短歌」で心の中を表現してきた。
秘めるからこそ、心が歌に詠まれて魂がほとばしっている。
すべてをまだまだ見せない廣岡冨美さんの生き様に「秘すれば花」という言葉が脳裏を走っている。

「『延日の海』の著書を通して」

「目次」
【1981年12月~ 汀線】
【1986年4月~ 責めを負いて】
の2項目に「汀線」―再会、ホーム・ルーム、藤阪の丘、耳塚民衆法要、大和の百済、魂の旋律、など、「訪韓」の項目で韓国を巡って歌にされたものが収録されている。筆者の独断と偏見で何首か抜粋して記述をしておく。

下11、韓国の地図

1981年12月インドに向う途中、乗り継ぎのためにソウル金浦空港に降りたたった。
>汀線<
[汀線の北上するが機窓に見えつ幻にあらぬ朝鮮半島]
[幻にあらぬ朝鮮半島の汀の線動悸はげしく機窓に面寄す]
[東海岸北上をする機窓に凭れ熱き動悸は郷愁と言わん]
[紺碧の海を飛びて北上す東海岸晴れて鮮やかな汀線]
>再会<
[三十八年の歳月は歴史と言わむ韓国より友らを迎えし京都の夜]
[いのちありて会いたり崔一今(チエイルグム)・文菊宝(ムンクッポ)よ相抱き合いて泣きぬ]
[チマ・チョゴリなる同窓会会長孫正植(ソンジョンシク)は美しき日本語もて挨拶す]
[侵略の歴史を負いて我らあれば動乱のことも問い難くいる]
[その一家の処刑も知りぬ鄭順蘭よ抵抗に死にたる君の生き方]
[臨戦におののく日々と聞く今宵報道にのみ知りきし隣国のこと]
[警報に備うと言うを沁みて聞きぬピョンヤンよソウルよ今宵日本は雨]

《ホーム・ルーム》
[人を刺す差別のことば少女らは遊びに言えりゆえにかなしも]
[人はなぜ差別するのですか]水無月七日のホーム・ルームの日誌]
[登録は十六歳からと答えたる金永美よそのあどけなき笑み]
[ついに自らの姜の姓を名告らざりき卒業証書の山本靖子よ]

《藤坂の丘》
[王仁博士の墓を伝える藤阪の野は茫々と草枯れにたり]
[草枯野み墓のめぐり無窮花の植樹なべてに韓国人の名札]
[全羅道百済の国の人々の白衣ひるがえる幻の列]
[「百済王汝は朕の外威なり」延暦九年二月十七日に記す言葉]

《「大和の百済」
[百済なる名を恋いて来つ松塚の駅に降りたり歩みはじめむ]
[限りなく晴れ渡る空なお霧らうしんしんとして遥か稔る百済野]
[百済川は今曽我川と地図に呼ぶ曝されて三重の塔側に残る]

《魂の旋律》
[ふつふつと限りなく慕わしこころ湧くチャングの響き韓国・朝鮮]
[過ぎ去りは哀しき歴史の国と国今宵肩並めてアリランを歌う]

>訪韓Ⅰ<
1986年4月、41年ぶりに韓国を訪問。旧友、各地より集い濃密な友情に接すると廣岡冨美さんの心情が記述してある。
―責めを負いて―
「ビザを受く」から。
[何に怯ゆる思いは過ぎてビザを受く韓国領事館を足早やに出づ]
[釜山行機内に渡るエプロンの中ほどに来て涙こみあぐ]
「連翹の咲く道」から。
[生きてあればこそと相抱きあい君よ君よ四十一年の歳月]
[わが生れし国なれどはや帰るべき故郷にはあらぬ連翹の咲く道]
[慶州を案内しくるる道々に漱石を龍之介を声弾ませて言うも]
「責めを負いて」から。
[「浦項東浜町」迎日湾の海に育ちしわれの郷愁]
[動乱に死にたる学徒の碑ありて水道山の道乾きて白し]
[広からぬ海峡を挟みて国は分く歴史のありて血縁のある]
「侵略者よ我は」から。
[喜びの色とぞ赤と緑なるチマ・チョゴリ一揃いを君らは給ぶ]
[姓を剥ぎて言葉を奪いし歴史の渦に幼といえども侵略者よ我は]
[一夜集いてこころ解かれて昂ぶれば議論は秀吉にいたりて果てぬ]

>訪韓Ⅱ<
1986年8月、李進煕先生の「韓国歴史の旅に参加、釜山、金海、扶餘、公州、ソウルを旅して詠んだもの。
[木槿の花つづく道ここは古の百済の国ぞ山河ありける]
[この国に亡びし国の名は日本に残る百済川百済駅百済寺字百済]
[装を改めて成りたる博物館その日「朝鮮通信使」展に列する民衆]

>訪韓Ⅲ<
1987年4月、井上秀雄先生の「韓国の歴史探訪」に参加。釜山、金海、咸安、昌寧、高霊、伽倻山、大邱、氷川、安東、ソウル、水原を歩いて詠んだもの。
《伽倻の国》
[桜並木つづく鎮海(チネ)を過ぎしところより馬山(マサン)に入りぬ]
[大伽倻国高霊の邑の家々に白木蓮の花咲きさかる]
《氷川菁堤跡》
[翁草ほつほつ咲ける丘のなだり古き代の農を援けし氷川菁堤跡]

>訪韓Ⅳ<
1987年歳晩から88年新年にかけてハングルの学習グループで旅をした。
《トンニプ―独立》
[歳晩の一日をこの若き友に導かるソウルの街パコダ公園]
[暮れてなお門開きいる公園に抵抗のレリーフ園をめぐれる]
[公園に暮れゆくしばしをたどり読むレリーフの文字「独立宣言書」]
[独立を叫びて獄に囚われて虐殺されたり柳寛順十六歳]
《罪を知るべし気》
[血ぬりし国血ぬられし国の近代化光化門景福宮閔妃暗殺]
[隣国の王妃閔妃を殺めしは日本人なりき教科書は載せぬ]
[教科書に侵略の事実を隠す国恥多き国の教師ぞ我は]
[幼馴染なればこそ許されし会話なれ金浦空港に君と別れき]

>訪韓Ⅴ<
《一生負うべく》
[韓国浦項からの国際電話図書室成りしを告げてきたりぬ]
[検問の兵の険しき目差に広げいし地図隠し仕舞いぬ]
[四十三年経し八月十五日をこの国に来つ許されざる恥一生負うべく]
[この国に忘却という語はあらざらむ豊かさの萌す日々といえども]
《迎日湾(ヨンイルマン)》
[ふるさとを人に問われて茫々と韓くに迎日の海の碧さよ]
[しののめの湾は大敷網の声銀鱗きらめくもなべて幻]
[恋い恋いし迎日湾のこの海に育てられたるわが少女期は]
[海を恋う心この湾にはぐくまれこの潮風にわれは生きたり]
[向島は今松島(ソンド)と呼ぶ渚辺に幼き記憶は雨中にけむる]
[雨やみて濁りたる海波高し湾の遥かに製鉄所見ゆ]
《徳寿洞》
[徳寿洞の君が家をわが家としてこの数日を我儘に過す]
《尹東柱よ》
[うつしえのその清らなる唇のむすび「空と風と星と詩」の詩人]
[ハングルをもて書きたるゆえに「日本」に殺されし詩人尹東柱よ]
[謎のまま福岡刑務所に獄死させられし詩人ありぬその名尹東柱]
《ヒロシマ》
[「もうひとつのヒロシマ」に告発をする朴寿南日本人よりも美しき日本語]
[大邱に釜山にソウルにケロイドに病み臥すを告ぐ「もうひとつのヒロシマ」は]
[公園に外れて本川橋のたもと韓国人原爆犠牲者の慰霊碑はありぬ]

「廣岡冨美さんの歌集―延日の海・あとがき」
「あなたのお故郷(くに)はどちら?」、「出身地は」
と、問われる度に私は一瞬とまどうのです。なぜなら日本人の一般的概念としてある「お故郷」とか「出身地」とかは自分がうまれ育った「ふるさと」を示すらしいからなのです。その意味からするとわたしには故郷がありません。いわゆる「ふるさと」と呼ぶべき地は今は外国であり、安易に「ふるさそと」と呼んではならない地なのです。かつて日本が植民地として支配していた地「朝鮮」が私の生地だからです。
その風土・環境が人間形成に大きい影響を与えるといわれる少女期の十五歳までをその「朝鮮」で過しました。
「朝鮮」は私の懐かしい「ふるさと」であり現在の「私」を実存たらしめる国でもあるのです。しかし私が「ふるさと」とするその地の人々はかつて「日本」という他民族によって侵略され、支配され、虐げられ、屈辱に耐えねばならなかった時代があり、今なお、その尾を引いて苦悩を強いられているということを知るに及んで私は安易に「ふるさと」と呼んではいけないと自分に言いきかせているのです。

私が生まれたのは朝鮮慶尚北道大邱府錦町―現在の大邱市です。鄭さんという人が運んでくれる山羊の乳で育ったのだと母からよく聞かされました。しかし大邱の町の記憶はほとんどありません。
生後まもなく同じ慶尚北道の迎日湾に臨む浦項邑という港町に一家は移り日本の敗戦までそこに私たちは「侵略者日本人」として住みました。小学校と女学校の3年生迄を朝鮮の大地と迎日湾の大海原によって育てられました。
浦項市は現在東洋一といわれる「浦項綜合製鉄所」が広大な面積でもって韓国の近代化を担っています。

下12―廣岡さんのあとがき

―中略― 祖国に帰りたくても帰れない在日韓国・朝鮮人達が何万人もいる中で、日本人の私がぬくぬくと郷愁を満たすための旅をしていいものだろうかという後ろめたさがありました。―中略―しかし当地の友人たちのエアメールは「政治を越えて幼なじみの友情を温めようではありませんか」と呼びかけてくれるのです。また女学校の同窓会はおりおりの記念式典に「在日浦項高女の皆さんへ」として招待状を送ってくれるのです。
私は望郷の念止み難く、1986年4月について思い切って韓国を訪問したのでした。釜山の空港には旧友たちが出迎えに来てくれていて驚かされましたが、慶州に浦項に、大邱に、亀尾に、ソウルにも旧友たちは待っていてくれて、それぞれの家庭に泊めていただきました。ホテルを予約している私を「水臭いね」といってホテルをキャンセルさせて近隣に住む級友たちが大勢集ってきて再会を喜び合いました。「40年ぶりに使う日本語だから口の中で錆びついてなかなか言えないよ」と、言いながら滑らかな日本語で私を迎えてくれたのでした。―中略― 41年ぶりの再会に私達は抱き合って涙を流し思い出は話は尽きませんでした。
しかし、その思い出話のすべてが戦争中の日本の軍事教育下のことばかりで、勤労奉仕の稲刈りや開墾の話、軍需缶詰工場の話、教練の話、松根油採集の話等々、今となっては笑い話として旧友たちは懐かしんでくれましたが、私は日本人として恐縮し恥じ入るばかりでありました。―中略― 例えば私が朝鮮で生まれて15歳まで過したと言いますと大方の人は「だったら朝鮮語は知っているでしょう」と言われます。朝鮮語が弾圧され抹殺されようとした実態を知らないからそう思うわ向けでしょう。当時、朝鮮語は公共の場で使用することは禁じられていましたし、学校で朝鮮語を使ったりすると先生に告げ口されたりしたものでした。ですから隠れてこっそり教えてもらったハングル文字の2・3と日常会話のほんの1・2しか知りませんでした。
また在日韓国・朝鮮人たちが現在もなお日本名を用いて生活しているのは何故かを知らない人も多いようです。当時「創氏改名」が強制されて、悠久の歴史をもつ民族名が剥奪され日本名をつけなければならなかった残滓のそれであり、今日の日本の差別社会の中では本名の民族名では生きにくい状況がそうさせていることをあまりにも日本人は知らなすぎるようです。―中略― その国が民族のことばを失うということはその国が滅びるということです。言葉を奪うとちいうことは国を滅ぼす侵略以外の何ものでもなかったのではないでしょうか。
私は「韓国」と呼んだり「朝鮮」と呼んだりしてきました。私の受け持つクラスの生徒や卒業生の中には朝鮮民主主義人民共和国を国籍としている生徒もいますし、大韓民国を国籍としている生徒もいます。また私の旧友同窓生は現在の韓国に住んでいます。その人達の住んでいる国の名を呼ぶことが礼儀ではないかと思っております。1つの民族が北と南に分断された悲劇も遡れば日本に関わりがないとは言えないことも知らねばならないでしょう。
この歌集を編もうと思い立って1年以上が経ってしまいました。こみあげてくる韓国への郷愁と共にも韓国内の民主化の道途への状況を思う時の一抹の不安とがない交ぜになって、長い間、机の上に原稿は広げられたままでありました。しかし民族の歴史的傷痕を直視することによってこそ隣国との真の交わりと信頼が生まれてくるのではないかと信じてこの1冊を私は思い切って手離し世に問うこととしました。厳しい批評を仰ぐことによってそれがまた隣国への架け橋となることを願っています。―中略― 30年の教員生活の中で出会った在日韓国・朝鮮人の生徒たちが日本の差別社会の中で生きてゆかねばならなかった辛さに対しての申し訳ない思いがいささかなりとも伝わったでありましょうか。1989年8月15日、廣岡冨美。

「日韓・韓日関係は」
日本と韓国の歴史や関係を伝え継ぐ自然の流れの中で廣岡冨美さんは「韓国とは誠実に信(まこと)で付き合うしかない。かつて朝鮮通信使が『信』を通わせたように、それには歴史を知るしかありません。日本の教科書は日本軍の侵略があったこと書いてもその実態を何も教えない。多くの学生たちが往来しても韓国と日本の歴史がかけ離れています」と指摘する。

「廣岡冨美さんの現在」
現在は施設の一角を購入して介護を受けながら生活をしておられる。
「奈良おんな物語」の取材で訪問したものの職員が訪ねてはあれこれとお世話をしておられる様子に長居はできなかった。
短い時間の中でも話して下さったことをここに記述をしておく。
「日本が戦争に負けて韓国の浦項(ポハン)を船ででたのは15歳でした。闇船のポンポン船に乗っての日本に向かいました。島根県に着いて汽車に乗って大阪に来ました。父も兄もいない。大阪駅で2日間、野宿をしました。
父がかつて鶴橋で商売をしていたが母親の里が奈良県の生駒でした。母親の里は住居があったので生駒に行きここで住みました。
1991年から93年、ソウルに韓国語の勉強のために留学をしました。高麗大学の近くで下宿生活をしました。
この時に韓国の時調と出会いました。日本で短歌を作って同人誌に発表し歌集も発刊していたので関心をもちました。
韓国語で作る『時調』は素晴らしいと思いました。
生駒市の自宅は近鉄生駒駅から坂道が多く加齢できつくなってきてこの施設に入居しました。姪っ子が生駒市の自宅を管理しています。韓国語教室で一緒に学んだ池田さんのお世話で今回の『歌集―時調唱の春』を出版しました。これがおそらく最後になると思っています。ここにいてもま生まれて育った韓国のヨンイル(迎日)の海が懐かしいです。足が不自由になってもヨンイルの海を見たいです。もう1度訪れたいというのが今の私の願いです」と、延日の海に行きたいと心から搾り出すように話していた。

「池田常雄さん、廣岡冨美さんによせて」
―廣岡さんは韓国の定型詩である時調の研究家です。2000年に「韓国近現代時調選集」を出版されましたが、翻訳をされていた頃をよく記憶しています。民団の韓国語教室は午後7時から始まりましたが、廣岡さんはいつも早くから来られ先生と翻訳について話をされていました。
 私はつい最近(2013年2月)、韓国の慶州に行きました。市場で、あるお店に入ると女主人が時調の本を持っておられました。そこで私は、日本の友人に時調の研究家がいるという話をすると、とても喜んで下さいました。主人は、この本をさしあげると言われましたが、固辞しました。
 今回の歌集は6冊目ですが、かなり以前から出版の意向を持っておられました。しかし今回、頭のはっきりしているうちに出したいと言われたので、編集のお手伝いをさせていただきました。
 今回は104首と、歌の数は少なめです。未発表の歌はノートにびっしり書かれているのですが、納得のいくものでなければならなかったのでしょう。
 本の装丁では、少し意見が異なりました。私や出版社の方は、最後であればできるだけ豪華にした方がよいのではと申し上げたのですが、廣岡さんは、最後だからできるだけ質素にしたいと言われました。結局、ある程度豪華にすることで納得してもらいました。本に写真を載せることも無理に納得していただきましたが、結果的にはよかったと思います、
 また、挿絵を入れれば引き立つのではないかと考え、家内に頼んで14枚の挿絵を描いてもらいました。
 これが最後の歌集だといわれていますが、さらに7冊目の出版をのぞんでいます。

 「筆者の感想」
廣岡冨美さんと初めてお会いしたのは2007年8月の真夏の夜、初めてお会いした。大阪市生野区の鶴橋駅近くの喫茶店で開かれた「韓国の詩を原語で読む会」の会合だった。このときすでに70歳半ばになっておられたが韓国について学ぶという意欲を強く持っておられる様子に筆者は驚いたものだった。

2回目は韓国の「時調」に関心を持って研究しておられていることから新聞記事の掲載で自宅を訪問した。自宅庭の植木鉢の花を愛でる姿は愛情に満ちていた。なんときれいな心の人だろうと筆者は思ったものだった。
3回目は廣岡冨美さんを知るある人と一緒に自宅に訪問した。筆者自身も著書の多さに驚いたが読書好きで知られているこの男性も著書の多さに驚嘆しておられた。
そして4回目はこの「奈良おんな物語」の取材でお会いすることになった。
2013年2月19日、午後1時、近鉄線富雄駅で池田常雄さんと待ち合わせた。池田さんの車で廣岡冨美さんが暮らしている施設を訪問した。
廣岡冨美さんはラジオを側に置いてハングル講座を聞いている。手元にはハングルの教材も置かれてハングルの勉強に余念がない。韓国に関係する学習欲にまた筆者は仰天し、頭も冴えていることに心の中でどっきりとしていた。

池田さんとは筆者が1987年4月から1年間、民団奈良会館の韓国語教室で一緒に学んだ。池田さんは20余年、韓国語を今は奈良外国語観光ガイドの会の代表です。
2007年9月8日、自宅に訪問したときはまだ元気そうだったが翌年の春にある人と一緒に訪問したときには筆者は心の中で1人暮らしは大丈夫かしらと思った。実母と2人で長いこと暮らしておられた廣岡冨美さん。実母が他界してからは1人暮らし、部屋の中は所狭く窮屈に書棚が置かれ本が溢れていた。
今は姪が自宅の管理をしているがあの本の多さに管理する人は大変だろうなとち筆者は思っている。

下13-施設の廣岡さん

施設を出る前に廣岡冨美さんのいわれた言葉がまだ脳裏に残っている。
「死ぬまでにもう1度、迎日の海を見たいです」と。
これが生まれ育った郷愁、何人であろうと故郷はその地、生まれた所が故郷なのだと筆者はまた改めて認識していた。
そして思った。
1世たちはどれほど韓国の故郷に戻って暮したかっただろう。
しかし生活基盤が出来た日本で暮すのが子どもたちのためと思って故郷に帰らず日本で骨を埋めた人が大半です。また北朝鮮に帰国した在日朝鮮人、どれほど日本の故郷を懐かしみ偲んだだろうか。そう思うと日本植民地支配の歴史は重く胸が痛く今もなおその尾を引きずっている廣岡冨美さんもいるのです。多くの尾を今も引きずりながら多くの人がこの日本で暮らしいることをこのコーナーで知って頂くことを願っています。廣岡冨美さんのあとがきは1989年8月に書かれたものです。それから日韓関係も世界も変貌しています。
しかし日本植民地時代の残像を今も引きづって生きているのが在日コリアン。日本国籍に変えた人も変えない人も朝鮮半島にルーツがある。そのルーツで悩み苦しみもがいてきた子弟たちの生き様を日本人のどれほど知っているのだろうか。
変わらないことが多く韓流ドラマにはまる人の多さに心の中では呆れている筆者です。

「歌集―時調唱の春」で詠んだ1首が印象に残っている。
―その国の言葉奪いし史実さえ知らぬ主婦らのハングル教室―
また「迎日の海」の歌集から1首です。
―在日の君の若き日を知る一人 語りつつ突如号泣せり―

下14-挿絵ーF

言葉を勉強するときに同時に日韓の歴史も学習してもらいたいものだ。そして在日コリアンが生きたその過酷な歩みが凝縮している短歌を紹介してこれで結びとします。

<写真説明>
1、「迎日の海」歌集に挿入された韓国の地図。2「延日の海」歌集に著者・廣岡冨美さんのあとがき。3、施設での廣岡冨美さん。まだ頭は冴えています。4、在日コリアンを歌にしたページの挿絵(画家・池田千恵子作)。
[ 2013/05/04 07:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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