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奈良おんな物語《27》「二つの国・『短歌・時調に思い』廣岡冨美」上:鄭容順

「プロフイル」
廣岡冨美さんは82歳、1930年8月、韓国慶尚北道大邱で生まれ3歳から15歳まで迎日郡浦項邑で12年間暮した。1945年9月、終戦で日本に引き揚げた。大阪に住んで実母の実家の生駒市に住居を移し母と子の暮らしをしてきた。
加齢になったことから現在の住まいは施設「いにしえの里、創生」に入所している。職員たちに見守られながら日々を過しておられる。



廣岡冨美さん2009年3月16日撮影

日本植民地支配化時代の浦項高等女学校を卒業して日本に引き揚げて大阪市内にある相愛女子専門学校国語科で学ばれた後、相愛高等学校・中学校で国語科の教諭をされて1991年に定年退職された。短歌会「未来」「黒豹」に所属。現代歌人協会会員。
韓国で暮らした15年間は決して忘れることができない。1991年から93年ソウル高麗大学校韓国語文化研究所に留学をした。日本に戻ってきても民団奈良県本部の韓国語教室に通い韓国語を学ばれていた。

廣岡冨美さん、花を愛でる

廣岡さんの自宅の庭の植木鉢

教諭時代、「短歌」を詠んでいたことから韓国の「時調」に惹かれていた。
廣岡冨美さんは「短歌」と「時調」、日韓の双方を通して知ったことについて話される。
「育った国に宿る精神がある。日本植民地支配の中で育った韓国、しかし日本でそのことを生徒にどう教えるかは非常に難しい問題でありました。教壇に立っている頃は自分で調べた教材を参考資料にして生徒たちに教えました。教室の中には在日韓国・朝鮮人の生徒がいて出自を名のる生徒にはまたさらに親しみを持って接して日韓の歴史を教えていました。卒業して結婚してもいまだに私の所に来てくれます」と話し、史実のある歴史教育の大切さを話す。

恩師の先生の、ホームぺージ

こうした思いを持ち教職を退職してからも活動を続けた。
「時調」に対して在日韓国人そして日本人に関心を持ってもらうことを目的に2007年9月に「学んで知ろう―韓国の詩を原語で読む会」の主宰となって教室を鶴橋駅近くの喫茶店の1室で開講した。

鶴橋の会合

「時調」の研究家である廣岡冨美さん。資料は韓国の「時調」に「詩」が持ち寄られた。
廣岡冨美さんは「詩を通して韓国の文化、韓国語特有の素晴らしい響きなどの理解そしてさらに歴史認識を深めてもらいたい」と語っている。
廣岡冨美さんは「韓国語にこだわるのは韓国の詩や時調は日本語で表現することの出来ない情感を伝えたいから」と話される。
―懺悔の気持を抱えて―
廣岡冨美さんが韓国の詩や時調について研究会の活動を行うにはやはり自分の出自にある。
韓国で暮らした15年間は生涯、忘れることができない。
「自分の人間性は韓国の風土と自然によって育まれたものです。私の故郷は韓国と日本の2つにあります。しかしその一方で植民地時代に日本人が韓国人に行ってきた行為に対し、同じ日本人として懺悔の気持を抱えながら生きてきました」と廣岡冨美さんは日韓の歴史の間を揺れながらも在日コリアンの子弟たちには真摯に民族の尊厳を指導した。
自ら制作した教材を使って生徒たちに教えた。日本の教科書には日韓の歴史についてき数行程度しか教えないのに日本からも韓国からも見た国のあり方を教えた。通名を使っていると在日コリアンの生徒か区別がつかない。
しかし廣岡冨美さんが手作りする教材を使っての日韓の歴史教育、なぜ在日コリアンが日本に住んでいるのか。1世たちの渡日史を教えていくと自分の出自を明白にする生徒たちがでてきた。出自を明らかにした生徒たちは卒業して結婚しても恩師を慕って廣岡冨美さんの自宅に訪ねてくる。
学校教育は目立たないが時間を重ねて年月を重ねてくると恩師の偉大さを認識していく。在日コリアンの子弟には大きな懐の存在だった。

―著書―
「時調唱の春」(歌集、京都カルチャー出版2012年)
「山河香る」(時調、文芸社2004年)
「韓国近現代時調選集」(土曜美術社出版社販売2000年)
「光化門」(歌集、六法出版社2000年)
「沙羅の木の蔭(歌集、六法出版社1992年)
「迎日の海」(歌集、浮游社1990年)
「播磨まぼろし」「歌集、1981年」短歌新聞社。
「八月」(歌集、1973年)白珠書房。
□著書の中から「時調唱の春」と「迎日の海」を通して廣岡冨美さんの横顔を紹介していきます。

「時調によせて」

―「時調」とは何か―
資料によると、「時調(シジョン)」は朝鮮で成立した定型詩、11世紀頃、高麗時代に成立したとみられている。朝鮮王朝時代に流行した。
「時調」という名称は朝鮮王朝第21代王英祖の頃から用いられた。
それ以前は「短歌」「長短歌」「新調」などとも呼ばれていたが現在はそうした言葉は使われていない。
「時調」は「時節歌調」の略称です。
いわゆる「流行歌」の意味であった。
歌人の李世春が「時調」という言葉を作ったといわれている。

起源については諸説がある。巫女の歌から来たという説、郷歌から発展したという説、また「満殿春別詞」などに見られる高麗の歌謡が起源という説などがある。「時調」はまず両班(ヤンバン 高麗・朝鮮時代の特権的な身分階層)たちによって作られ内容は儒教精神を歌った。やがて自然美を歌った牧歌的、叙情的なものに変わり妓生(キーセン 芸妓)が時調を作るようになると、より人間の具体的な感情を歌うようになった。
「形式」は3章6句の45字からなる。
音数律は三四調、もしくは四四調が基本、日本の和歌や俳句のように厳格でなく多少の字余りは許される。
但し終章の最初の句節など約束事はある。

<写真説明>
1、廣岡冨美さん2009年3月16日自宅で(池田常雄さんからの提供)。
2、筆者が取材で訪問した2007年9月8日に撮影。自宅の庭の花に愛でる廣岡冨美さんの優しさに思わず写真撮影をしていた。3、廣岡冨美さんが育てている植木鉢です。これも2007年9月8日撮影。4、2007年8月8日、大阪市鶴橋駅近く喫茶店の2階会議室で開かれた「韓国の詩を原語で読む会」での廣岡冨美さん。筆者が取材で訪問して撮影したもの。廣岡冨美さんは写真左から3人目の真ん中です。


[ 2013/04/30 07:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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