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奈良おんな物語《26》「歌人・水野智子」下:鄭容順

「小町座での活動」
「小町座」は奈良市元興寺に住まう劇作家、小野小町さんが率いるお母さん劇団である。主宰の小野小町さんが「ヤママユ」の会員であることから、「前登志夫を偲ぶ会」を結成、郷土の大歌人の業績を奈良の人々や、次世代の子供たちに、もっと、もっとよく知ってもらうために、ドラマを制作、自ら演出をして上演し、歌と写真のパネルを展示するなど、さまざまなイベントを催している。水野智子さんはそのドラマに出演してドラマに挿入された前登志夫の短歌や、エッセイを朗読したり、劇団の若いお母さんたちに戦時中の子供の生活を語るなどの活動をしている。


最近は「ならドットFM」のドラマ「なら記紀万葉ファンタジァ」終了後のインタヴューで、大学時代の友人の児童文学作家、阿久根治子さんの著書『やまとたける』(福音館)について解説、じっくり本を読み、想像力、と創造力を育てることの大切さを子供たちに語りかけた。

小町さんと

また戦中派の水野智子さんは自らの体験を、折りにふれ小野小町さんたちに語り、小野小町さんはそれをドラマ化してきた。諸事情のため、この春から「小町座」は芝居の上演活動を休止することになったが、また違った形での活動を予定されているそうだ。
直接、悲惨な経験はしたことがないとはいえ、100メートルの至近距離への焼夷弾落下、そして疎開など、彼女が味わった戦時下の子供の体験は、「戦争を知らない子供たち」である、小野小町さんの世代にはやはり、「聞いておくべきことであり、また次の世代へ語り継ぎたいことである」と、熱心に聴いてくださっているのはとても嬉しいと水野智子さんは語る。

ならうたものがたり

朗読1

朗読2

小野小町さんののエッセイを紹介します。
○ 小野小町さんのエッセイ----水野智子さんに思いを込めて寄稿して下さった原文のまま紹介します。
―詩を持つ声 水野智子さんのこと―
≪歌人、前登志夫先生の主宰する短歌結社「ヤママユ」でご一緒させていただいている縁もあって今回、水野さんの出演をお願いした。水野さんは私にとって特別な人だ。参加したお母様たちの言葉を借りれば「ああいう方がいらっしゃるなんて。何をお話なさっても品があるのよね」と熱い視線でこう述べる。
うん。確かにこの感想は核心をついている。戦前生まれの水野さんと現代のママたちが明らかに違うのは、年齢の問題でなく、体の中に入り込んでいる言葉の質にある。
それらをおそらく私たちの世代は「品」という言葉で表したのだ。つまり、言葉の寄り添い方が私たちと全く違う。水野さんの言葉は、書く文字の言葉でなく、人生に生きる力により寄り添ったものだ。それは五感すべての集大成といってもいい。
「失われた時代を求めて」を書いたフランスの文豪、ブルーストは、マーマレードから過去の時間が現代に明らかに蘇るのを「発見」した。
水野さんとお話していると、実際、その繰り返しなのだ。水野さんが過去のことを語っても過去でない。けれど私たちが過去を言ってもそれはただの過去である。ここが水野さんが「特別」である由縁である。こういった「特別な人」というのは、かつていたはずなのだ。それは祖母であったり、叔母であったり。また地域の語り部というべき人もいただろう。言葉があれば、物が乏しくてもおなかが一杯になった。そんな感覚を完全になくしている。言葉は「おなかに入るもの」でなく、いよいよ「外に飾るための道具」になっていくのかしら。
だからもっと。と思う。
私だけ水野さんの話を聞くのはもったいないと心底思う。今のママたちに聞いてほしい。
今回私は、打ち合わせと称して、水野さんからたくさんお話を伺った。幼い頃、出会った木のこと。その木にまつわる言葉と「味」の話。またいずれ水野さんご自身がお書きになると思うが、私はその「お話」の時間が永遠に続くと思っている。話をしていれば帰る時間がすぐやってくる。けれど水野さんの言葉の時間は私のおなかに入ってまだ見ぬ時間に手を伸ばす。
もう一つ大事なこと。演劇の立場から言えば、水野さんはすべて兼ね備えた稀有な方だ。
私が美人好きということもあるが、一番は存在そのものの問題である。絵本を読む時、子供を退屈させないようにと大げさに読む人が多い。本の種類にもよるが私にはとても見苦しい。水野さんは何を読まれても水野さんだ。ここがすごい。水野さんの「声」、そこには既に「詩」がある。この「詩」に触れた言葉がいのちを得て更に輝く。これが水野さんの「語り」であると私は思う。
どうかお体に気をつけてこれからも私たちにその「声」を届けて下さい≫

筆者は小野小町さんが語る水野智子さんのメーセッジを読んで「なるほど。そうです。そうです」と頷き、水野智子さんの家族、そして結婚してからの家族、家族の絆と愛、そこは時世を鑑みて育んだものです。厳しくもあった戦前生まれの世代、戦中も生きてこられた。苦難だからこそ人として生きる智恵があった。細やかな気配りのある家庭環境、日本が培った文化の土壌があると思っている。また俳画も趣味としての活動ですがなかなかのセンスのある俳画です。
ここに紹介してえきます。

俳画1

俳画鼠2

俳画、朝顔3

俳画4、猿はじきの郷土玩具

俳画5、鉄線花

俳画6、鈴雛

「水野さんの体験したエッセイ」
〔戦時下の子ども〕
昭和20年3月9日東京に夜間大空襲があり次は名古屋だと、非常持ち出しのカバン、防空頭巾、水筒を枕元に置き、備えは万全のつもりだったが12日夜半、いざ空襲警報のサイレンが鳴り渡ると、恐怖で体がこわばり、動きもままならない有様で、はらわたがひっくり返るような思いというのを初めて経験した。弟は心臓が喉から飛び出しそうという表現をした。
細長い町に沿って田んぼに落とされた焼夷弾は稲塚を焼いただけで家屋や、人的被害もなく町は焼失を免れたが、翌朝は黒煙の厚い雲に覆われ何時までも夜明けがこなかった。そして黒い雨が降ってきた。
名古屋はこの空襲により一夜にして151,332人が被災し家屋39,893が焼失した。当時、国民小学校6年生の私の非常用カバンは帯芯の母の手縫いで、覆いに住所氏名、血液型を明記した布を縫い付け、中身には米、鰹節1本、するめ1枚、炒った空豆、干し芋、包帯、三角巾、蝋燭、マッチなどなど、もし独りぼっちらなってもしばらくは飢えを凌げるようにとの親心がいっぱい詰まっていた。

〔疎開地にて〕
名古屋大空襲の翌日、父はただちに、健康を害し、休学中だった私と当時五歳の妹を、母のふるさとに疎開させた。終戦までの数ヶ月、幼い妹は父母に会いたいとは一言も言わなかったが、時折わけもなく大泣きをした。様々な思いを一気に吐き出していたのだろう。麻疹で高熱が続いたとき父が切符を工面してやっと来てくれた。(当時は切符を手に入れるのも困難だった)
短い逢瀬だったが妹はむずかって存分に父にあまえていた。その夕暮れ、村はずれに消えて行こうとする父の姿を見送っていた私は不意にたとえようもない不安に襲われた。父の帰りの列車が機銃掃射にあったらどうしょう。次の空襲で一家全滅するかもしれない。もうお父さんやお母さん、そしてお姉ちゃん、弟たちに会えないかもしれない。
私は妹に聞こえないよう声を殺して泣いた。そんな思いから私を救ってくれたのはラジオから流れる歌声だった。
~太郎は父のふるさとへ・・いのち清しく育てよと、遠く離れた父の声~
梅雨もよいの生暖かい闇にツィート蛍の光が過った。
(幸いにも私たちは戦災孤児になることを免れ、無事終戦の日を迎えることが出来た)

水野智子さんには小学校時代、日本植民地支配で朝鮮半島から渡ってきた朝鮮人の友人もいた。「子供同志は隔てなく遊んでいたが周りはこの人たちにはやはり差別があったようだ」と話す水野智子さん。ここに記述できない事柄もあった。そうした世相の中で生きた人たちも今も健在といううこと。ご理解をおいします。
そこで水野智子さんは、後に新屋英子の一人芝居『身世打鈴』を観て、戦時中の在日の人々の生活を改めて知り、特に小さい子供たちに優しかった朴お兄ちゃんのが理不尽に先生に叱られている姿が眼に浮かび、胸が苦しくなるほどだったという。朴さんは、戦後、北へ帰ったという噂だが、その後の消息は一切わからないと語り次のような短歌を見せてくださった。

改訂のまた改訂の教科書に歴史を学ぶわれの孫(うまご)ら/歌誌「ヤママユ」明日のわが運命(さだめ)なるべし/隣り家に兵送る夜の父のつぶやき心優しき/朴(ぱく)青年の北へ帰る意志堅かりき母を残して/老い母に海を越えたる青年ののちを知るよし絶えてなかりき/相ともに「さくらさくら」を歌ひしを平壌(ぴよんやん)の春いかなればこそ/「身世打鈴(しんせたりよん)」苦き一と世を底ごもるこゑに呟くオモニ英淑。『新屋英子の一人芝居「身世打鈴」~オモニ申英淑の一代記~を観て』

水野智子さんのこの短歌を読んで筆者も日本に渡ってきた一世たちの苦労の一端を見るように思い、水野さんのご理解を得てここに紹介をした。
新屋英子さんが「一人芝居」で一世の生き様を舞台で表現、オモニたちが地を這うに生きてこられたことが短歌からも伝わることだろう。

「もう1つの活動」 ~住まいの近辺で~

以前「奈良おんな物語」で紹介した堤早苗さん夫妻が経営している自然派カフェ、「オーガニックカフエーミルクテイ」(奈良市鳥見町)で「古典&連句の会」に参加している。
この会は「百人一首の会」として発足、主宰はtoyuchuさん。幹事はクレチャン・・とそれぞれがハンドルネームで呼び合い、月一回の古典の購読、インターネット上での連句の検討をするなど、雑談を交えての和やかな会だということです。

水野さんの若いとき

水野智子さんは短歌は「雪月花」の世界ばかりを詠むのではなく、
今、自分の生きている時代を反映するものも詠むべきだろうと言われ、
3・11のことなども次のように詠まれている。

歌碑の前の水野さん

水野さんの資料の説明

水野さん2013―1―29撮影

◆新聞に死者の名あらた朝々をこゑあげて読むわが魂鎮(たましづめ)
◆枇杷の花咲きて青実の枇杷色に太りゆく日々 被災地の日々 震災百日忌に
◆わずかなれど収穫ありと三陸の若布は売らる鯵に並びて
◆この春の三陸若布冷水に浸せば満ち来海の濃みどり

「筆者の感想」
準備して下さった資料を、拝見しながら原稿作成していくのは楽しい作業でした。揃えて下さった資料はご自身のパソコンに保存してあるものからプリントして下さっている。この労力にこころから感謝しての原稿作成でした。
今回の取材は、以前、「奈良おんな物語」で掲載した「オーガニック カフエ・ミルクティー」を経営している堤早苗さんの紹介です。奈良市鳥見通りにあるミルクティーの喫茶店で水野さんに初めてお会いした。奈良市内の街角ですれ違っているかもしれないほど様々な活動をしておられる。

皆が賞賛する水野さんの「朗読」を少しだけお聞きした。その優しい声で登場人物や事がらを表現されて、ゆっくり紡ぎだされる言葉になぜか心が落ち着いた。それはどこから生まれてくるのだろうか。
原稿を作成しながら思ったこと。それははやはり幼い頃から育った家庭環境にあるのではないかと思った。彼女は戦前生まれである。家長である父親は威厳があったが、大きな包容力のある人だった、そして、何よりも子供たちを深く愛していた。その中で優しい母親がいて、姉妹、兄弟と恵まれた家庭環境が育んだものであったと考えている。そして一歩一歩と両親から離れて自立していかれるのは小学校時代に結核を患って親と離れて祖母と暮らした経験と戦争を挟んで自分と向き合い、この時代に身につけた生きる智恵がその後の活力の源になったのか。自身の足で一歩一歩と前に進んで歩いてこられたことにより今の水野智子さんがあるのだろうと思う。小野小町さんの言う「詩を持つ声」はそういうところから生まれているのだろう。

400首もの短歌を掲載した歌集『もう一つの窓』の著書。日々の生活をとらえて短歌にされたその一首、一首は、また厳しくも優しく博識のある女性の歌でした。家族を思う心に胸を打たれ、そして夫を思う心の歌は胸にどんどん響いてきた。
歌集の中の短歌を全部、紹介できなくて筆者の独断と偏見で選出して掲載したことに心残りはあるが、ここに一文を添えて水野智子さんの活動を「奈良おんな物語」として結んでおきたい。
一つ、感じたことは最初、お会いした時はいろいろお話をして下さる様子から物静かな良家の奥さんという印象だった。2回目の取材の時は、お茶目で、可愛らしい人柄を垣間みる瞬間がたびたびあった。
なるほどこんなところが多くの人たちに好感をもたれているのだろうと思った。
ご主人は1987年に逝去された。
経済の高度成長期で、転勤、出張の多い商社マンの夫を支えた家庭のよき奥さんだった。男女の子どもを立派に育てられたことにも水野智子さんらしいなと思って話を聞いていた。短歌の話をする中で言葉の大切さを説かれ、古語辞典を引くことを教えて下さった。なるほど、筆者は国語辞典や漢和辞典、類語辞典、外来語辞典をなどは使っていたが、また新しい分野の活動をお聞きして眼が開かれた思いであった。
水野智子さんの取材は2回、3時間あまりの聞き取りでここに文書を作成した。
80年の生涯を短い時間の聞き取りで不備は多々あるかと思いますが一人でも喜んで下さる読者がおられましたら、それこそが筆者の喜びです。
またこのたび、聞き取りが不十分で校正に水野智子さんにかなりのご迷惑をかけた。それに陳謝して感謝しています。
筆者の掲載したい熱意に応えて下さった。目の痛みを抱えながら資料や写真の提供に対応して下さった。もう1度、韓国語で「感謝します(カムサハムニダ)」

<写真説明>1、小野小町さんと一緒です。2、「小町座」主催の「ならうたものがたり」のパンフレット。3・4、水野智子さんの朗読の舞台です。5~10は「俳画」と「句」です。上の2枚は水野智子さんが描いた「亥年」と「子年」の色紙。下の4枚は幸治燕居師の句です。猪=亥、鼠=子。その下から猿はじきの郷土玩具、鉄線花、鈴雛。11、水野智子さんの20歳前後です。大学では教員免許を修得、子どもたちにも大人たちにも説得力のある朗読、基礎学習をされているからでしょう。12、歌碑の前で撮影、歌碑の前の記念撮影に歌碑の短歌を挿入。水野智子さんの若かりし日。13、「歌集―もう一つの窓」などの資料を説明される水野智子さん。14、水野智子さん、2013年1月29日、ミルクティーで取材の時に筆者が撮影。
[ 2013/03/02 07:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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