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奈良おんな物語《26》「歌人・水野智子」上:鄭容順

「プロフイル」
水野智子(さと子)さん(80歳)は1932(昭和7年)生まれです。戦前・戦中・戦後を生きぬいて今なお元気に、日々の暮らしの中から短歌を詠んで心に響く言葉を発信しておられる。



水野―上-1

生家は愛知県海部郡(名古屋市近郊)、父は歯科医で、伊勢を郷里とする父母のもとで5人兄弟の次女として育った。水野さんの育った家は、歯科の診療所部分が洋風、家族の住居部分は和風という、昭和初期の典型的な和洋折衷様式の郊外型住宅であった。愛・地球博でスタジオジブリが映画「隣のトトロ」の「サツキとメイの家」を作る際にアニメのなかの家に酷似した外観と、内部を参考にされ、今では生産されなくなった歪みのある板ガラスや、特徴のある襖の取手などは水野さんの生家のものがそのまま使用された。愛・地球博開催中は人気の高い展示館で多くの人が訪れ、地球博閉会後も跡地の公園にそのまま保存されることとなった。

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水野-上―5

生家は濃尾平野の田園地帯にあり北東にアルプスの御岳が、北西には伊吹山が遠望できた。春は一面の菜の花、蚕豆,豌豆などの野菜が栽培され、麦畑は収穫の後、ならされ満々と水がたたえられ、早苗が風にそよぐ青田となる
この清々しい広野が水野智子さんの原風景で、その生家は絵本の中の一コマのように、幼い日の思い出をいざなう、想像と創造の源であったのだろう。
その後生家は傷みが激しくなり、取り壊されたが、「家の一部がこのような形で残されたことは何より嬉しいこと」と語っておられる。

父方の祖父の実家は代々庄屋で、南北朝時代、南朝の北畠親房,顕家らに与し、資金などの面で寄与したことが、現三重県南島町の郷土の歴史、小学校の副読本に記録があり、また美杉の北畠神社にも記録があるようだ。

水野-上の-6

水野-上―7

水野智子さんのお話です。
「生来、からだが弱かったので、戦争の激化によりますます厳しくなる学校生活に耐えられず、父の計らいで国民学校5年生のときに休学して母の実家、伊勢松坂の郊外へ疎開しました。母の実家は静かな田園地帯で終戦間際に地方都市の空襲が始まるまでは、戦時中とは思えない、のどかな日々を過ごしました。瑞々しい田園の生活はふるさとの濃尾平野の風景とともにその後の私の精神形成に大きな影響与えてくれたようです。
終戦の後、徐々に健康を取り戻し翌年、一年下のクラスに編入、学制改革で新制中学生となったのでスムーズに新制高校に進学することが出来、戦後民主主義の恩恵を享受した世代といえるでしょう。

水野-上-2

(註・・戦争とは第二次世界大戦のことです。1939年12月8日勃発、1945年8月15日終戦)
高校、大学を卒業後、同じ愛知県半田市出身で商社勤務の水野彰一さんと結婚、名古屋市に居を構えたが長女の出産後すぐに夫の転勤に伴い、西宮市に転居して八年、男女二人の子供たち阪神間で幼い日をすごした。のち、奈良近郊の富雄に移り住んだ。

<写真説明>1、水野智子さん。2012年12月12日、ミルクティーで取材の時に撮影。上品な奥さんの印象です。2、愛知万博でレトロの家として紹介された写真。3、愛知万博の記事が新聞記事に。4、若き20歳前後の水野智子さん。水野智子さんがお気に入りの1枚です。5、自然の多い風景で撮影した1枚もお気に入りです。6、2013年12月12日、ミルクティーで撮影。スカーフを首に巻いて「このスカーフは主人がプレゼントしてくれたの」といいながらも少し恥ずかしいのか横を向かれたところがまたお茶目なしぐさ、思わずカメラのシャッターを押していた。
[ 2013/02/26 07:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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