ジャーナリスト・ネット公式ウエブサイト

ジャーナリストの取材記事、論考などそ掲載するブログ
ジャーナリスト・ネット公式ウエブサイト TOP  >  スポンサー広告 >  Web管理室 >  ジャーナリスト李仁哲さんを偲ぶ 6;川瀬俊治

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

ジャーナリスト李仁哲さんを偲ぶ 6;川瀬俊治

1月には「ジャーナリスト李仁哲さんを偲ぶ」を4人の方の執筆で5回連載してきましたが、今回からは川瀬が担当して5回に分けて連載します。

何よりも知に拓かれ、人に開かれ、学びあれ
ー李仁哲先生が生涯賭けて求められたことー 1




                                           川瀬俊治(編集者)
2012年3月23日、ソウル中央地方裁判所である判決が下った。東亜自由言論守護闘争委員会(東亜闘争委)が大韓民国政府を相手取り起こした損害賠償請求訴訟裁判だ。判決は敗訴だった。「訴因となるべきことはすでに時効だ」との判決理由だった。

法廷には東亜闘争委のメンバーとして傍聴席に顔を見せるべき1人のジャーナリストの姿はなかった。李仁哲先生だ。判決にさかのぼること3ヶ月半前の2011年12月2日、肺ガンのためソウル市内の病院で76歳の人生を終えていた。東亜闘争委結成は1974年だからすでに37年経過していた。結成時に参画した130余人のうち、この日の裁判を待たずに他界した人は李仁哲先生をはじめ20人を越えたかもしれない。それだけ時間が経過したのだ。

生前、李仁哲先生は「私の人生でささやかながら世の中に寄与できたことは、東亜闘争委のメンバーとして言論の自由の闘いに参加できたことであり、もう1つは日本のジャーナリストを中心とした人たちの交流を続けられたことだ」と常々語っておられた。知日派言論人として日本にも多くの知人をもつ李仁哲先生の死は、日本のメデイアでは一切報じられなかったが、その葬儀に駆けつけるもの、弔電を寄せるもの、のちにソウルの自宅に弔意を伝えるため訪韓するものなど、彼を知る日本人の間で衝撃が広がっていった。

李仁哲先生は植民地下での日本語教育を受けた世代である。1935年11月10日、朝鮮平安北道龍岩浦邑で生まれ、解放時(1945年8月15日)は、満年齢で9歳である。その後は無論日本語教育を受けることはないのだが、解放後もかつての支配言語である日本語を読み、さらに英語を学んでいった。

なぜ日本語の本を読むなど親しもうとしたのか。わたしの問いにこう答えられたことがある。

「日本の唱歌を忘れようとしても口に出てくる。わたしの人生で皇民化教育は多大な影響を与えた。精神の奥底に日本語のリズムがまだ生きていることの残酷さを知る。しかし言論の自由と闘う日本のジャーナリストや、韓国の民主化を支援する人との交流に生かすことは決して否定すべきではない。知日であることは戦前の親日派とは違う。

さらにもう1つ大きな理由がある。東亜日報時代から欧米の書を原書で読みたかった。しかし、言論の自由はなかった。自由に洋書を読めない。それに比べ日本は欧米の書を翻訳していた。そこで日本語で読めるならと知人を頼り日本の本を読んだ。もしかしたら日本語を忘れない生活をした第1の理由かもしれない」

本を提供した友人に、農民運動家の李健雨先生、歴史学者の朴菖熙先生の名前をいつもあげられた。李健雨先生は終生農民運動に邁進された方で、自宅に膨大な蔵書をもつ読書家であった。とりわけ、2人とは気が合われた。2人して東京と大阪に来られたことも何度かあった。道頓堀でご一緒し酒を肴にして、韓国の農民運動のこと、言論状況のことを伺った。豪放磊落な李健雨先生と万事控え目な李仁哲先生との妙は、友だちというより相補う本当のきょうだいのようにも映った。

一橋大学の留学から帰国した朴菖熙先生も同様の趣きがあった。何事も果敢に挑戦される朴菖熙先生に比して、常に冷静で迫り来る荒波を見つめておられたのが李仁哲先生のように思えた。朴菖熙先生は最新の日本で刊行された書籍をお持ちであった。李仁哲先生はその多くを借りてむさぼり読んだという。「李健雨さん、朴菖熙さんの家に行くと膨大な本があり、遠慮することなく読むことができた」。実に楽しそうな表情をされたころを思い出す。「学者になることが夢だった」李先生らしい。最初の出会いは東亜日報外信部デスク時代で、朴先生が梨花女子大学で教鞭をとられていたころだ。

本にまつわるエピソードは南北分断の悲痛な断面も刻んでいる。一九八〇年代の韓国で、岩波書店の月刊誌『世界』を読むことは「危険」であったようだ。軍事政権下、雑誌『世界』は朝鮮民主主義人民共和国(共和国)に関する論考、アメリカの極東軍事戦略批判を多く掲載していたが、李仁哲先生はこの雑誌を日本の政治状況、民主陣営、運動圏の動向を知る羅針盤として愛読された。『世界』を入手し読んでいた数少ない韓国人ジャーナリストであった。当時、農村経済研院に勤めていた李仁哲先生は「『世界』を読んでいるものがいる」と研究院から非難されたと話されたことがある。『世界』を読んでいることは、当局の監視の対象であったとも言われた。

先生の日本の状況を知ろうとする思い、リベラルさは分断体制の枠を越えていたのである。
[ 2013/02/06 13:21 ] Web管理室 | TB(-) | CM(-)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。