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ジャーナリスト李仁哲先生を偲ぶ 5:長沼 節夫(ジャーナリスト=日本)

追悼・李仁哲さん 下
  
ハンギョレ新聞の創刊は日本のメディアにも影響を与えた。70-80年代を通じて「戦場の村」「中国の旅」など次々と注目すべきルポルタージュを書き続けてきた朝日新聞の花形記者の本多勝一氏は、92年の定年退職を前に、新たな新聞の創刊に意欲を燃やしていた。「新聞創刊の仲間になれ」と私にも協力を求めた。



2人が注目したのが韓国でスタートしていた、権力から独立し、広告に依存しない民主的な日刊紙ハンギョレ新聞だった。本多氏は私の紹介で李仁哲氏をソウルのハンギョレ本社に訪ね、創刊までの苦労話を聴いた。

 本多氏が最も参考にしたのは資金調達の方法だった。ハンギョレは全国に「株主になってくれませんか」と声を掛け、その結果集めた資金を資本金としていた。本多構想については日本国内でも彼の友人や熱心な読者を中心に知る人が増えて行き、「相当額を出資したい」「財産を提供する用意があるので、その節は自分にも声を掛けて」といった声が各地から集まった。これは新聞構想への大いなる追い風だった。しかし我々は結局、日刊紙創刊までは踏み切れなかった。

 ハンギョレ創刊当時の韓国は五輪開催を控えて建築ラッシュが続き景気が上向いていたが、日本で我々が日刊紙を構想した91-2年はまだバブル景気の余熱はあったものの、景気は早くも後退局面を示していた。それで日刊紙創刊は将来の課題として残しつつ、当面、週刊誌発行で我慢することとし、李仁哲氏から聞いたハンギョレ方式で拠金を募った。93年「週刊金曜日」を創刊し、同誌は今日に至る。李さん、その節はご助言ありがとう。
[ 2013/01/20 00:43 ] 寄稿 | TB(-) | CM(-)


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