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ジャーナリスト李哲先生を偲ぶ 4:長沼節夫

 追悼・李仁哲さん 中   
 
 韓国の言論界では李仁哲氏ら東亜日報記者や東亜放送の記者たちが74年、「自由言論実践宣言」を発表し、政府=KCIAによる新聞介入に反対を表明した。

 これを機にKCIAの東亜弾圧は本格化し、広告主を脅迫して広告をストップ。日本にいた私たちも市民運動の仲間で広告カンパを送ったり、日本から郵送による定期購読を申し込んだりしたが、大新聞の経営にとってそんなささやかな支援は「焼け石に水」だった。同社は政府に屈服し、翌年記者132人を解雇・追放した。当時外信部次長だった李仁哲氏は解雇対象ではなかったが、間もなく抗議の辞表を提出して言論守護闘争委員会に加わった。KCIAから「政治記者」のレッテルを張られて失業した記者たちは、再就職先を捜したが、会社経営者たちも政府からの圧力に屈し、彼らを受け入れなかったのでたちまち記者らはたちまち困窮し、子供たちの多くが進学を断念せざるを得なかった。

 被害は政治記者たちだけに留まらなかった。李仁哲氏の妻慎鏞子さんも夫と連座するように、長年勤めていた国会図書館をクビにされた。生活難が襲いかかった。しかし慎さんらは同様に解雇された仲間と不当解雇撤回を求めて裁判に訴えた。裁判が13年も続くうちに朴時代と全斗煥時代が過ぎて民主化の波が兆し始めた89年、慎さんらは国に勝訴し、復職を勝ち取った。日本では松井やより記者や当時事実上日本に亡命中だった思想家・池明観氏らが呼びかけ、筆者らも加わって解職記者の子弟たちを日本に招待して歓迎会やホームステイを実施して励ました。しかし子弟らが受けた辛酸に比べれば、気休めにすぎなかったかもしれない。

 私も個人的には李氏の子息忠植君の日本留学に際し、身元を引き受けるなど、ささやかに支援した李仁哲氏は長く失職中の苦難に耐えるうち、僅かな民主化の空気を見逃さず、民主人士を中心に新たな日刊紙創刊を計画した。宋建鎬氏を代表として88年5月に創刊した「ハンギョレ新聞」がそれだった。宋氏もまた、東亜日報弾圧に抗議して辞職した編集局長だ。当時はまだ全斗煥軍事独裁の色彩を政治に残していたが、後継者盧泰愚政権が「6・29宣言」で民主化への道を歩き始めた。その背景にはまた翌年のソウル五輪開催の影響もあった。五輪を控えて韓国が世界の注目を集める中では、政府も昔のようなあからさまな民衆弾圧をやりにくくなっていたのだ。
[ 2013/01/19 23:38 ] 寄稿 | TB(-) | CM(-)


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