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ジャーナリスト李仁哲先生を偲ぶ  3:長沼節夫

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写真は東亜日報外信部デスク時代の取材で。写真左前列左側。

連載3回目は長沼節夫さん。李仁哲先生との出会いは早く、1960年代後半に遡ります。長文のため3回に分けて連載します。

追悼・李仁哲さん 上   


                               長沼 節夫(ジャーナリスト=日本)
 李仁哲氏は軍事独裁政権の下で長期間自由な言論活動を阻まれ、民主言論実現のために闘った記者だった。私は1960年代後半、日本に農業研修に来ていた徐洪錫、李健雨氏と知り合い、両氏からソウル大学時代の学友だったという李仁哲氏を紹介された。東亜日報社に初めて訪ねた時、李仁哲氏はスマートで美男子の外信部記者だった。
当時韓国は朴正煕大統領による反共独裁体制の下にあった。駅やバス停留所には「こんな人はスパイだ。すぐ警察に申告せよ」というビラが置かれていた。「早朝に山から下りてきた人、服装の変な所に折り目のある人、よくラジオのアンテナをいじくる人、路上で口論していても他人が来たら突然止める人、服装に似合わぬ大金を持っている人」など20項目ほどが並んでいた。それで友人の徐洪錫氏は、バスの切符を買った時、カバンに大金がのぞいていたといってバスの車掌に申告され、警察でさんざん調べられた。その日、銀行から営農資金の貸し付けを受けて帰る途中だった。当時まだ学生だった私自身、ソウルで交番に立ち寄って友人宅への道を聴いただけで、身体検査をされて旅行かばんの中の品物を全部チェックされたほどだ。「流言蜚語の罪」というのもあり、これは「北」の体制を称賛してはならないだけでなく、そんな話を聞いたのに当局に黙っていることも犯罪とされた。ソウルの友人の友人はある日、酒場で議論するうち、「しかし君、北では農業が発展しているというじゃかないか」と喋ったのが酒場従業員の耳に止まって交番に通報されて捕まったという。
 言論機関に対する締め付けも厳しく、新聞社には毎日、KCIA要因が「出勤」してきて、記者が書く原稿を見て、黙ってそれを破り捨てても、記者は後難を恐れて文句も言えなかったという。李仁哲記者やその仲間と時々飲みに行った。光化門に近い「七賢殿」という酒場で、インテリの主人と気心が知れていて、密告されないので割合勝手なことを言い合える場所だと聞いた。
70年代に入ると民主主義者や言論人に対する締め付けはさらに厳しさを増した。71年の大統領選挙で朴大統領に肉薄した民主主義者の金大中氏は同年、暗殺未遂事件に遭遇して一命を取り留めたが重傷を負った。その治療のため東京に滞在中、KCIAの手で再度殺されるところだったが、邪魔が入って拉致事件に変更されたという。世に言う「金大中事件」だ。日本では長い間、「金大中氏を殺すな」というデモや集会が全国的に続いた。余談だが私は71年に学生新聞の記者として金大中候補に取材して以来、親交を深め、金大中事件直前まで頻繁に会って励ましていた。
韓国の言論界では李仁哲氏ら東亜日報記者や東亜放送の記者たちが74年、「自由言論実践宣言」を発表し、政府=KCIAによる新聞介入に反対を表明した。これを機にKCIAの東亜弾圧は本格化し、広告主を脅迫して広告をストップ。日本にいた私たちも市民運動の仲間で広告カンパを送ったり、日本から郵送による定期購読を申し込んだりしたが、大新聞の経営にとってそんなささやかな支援は「焼け石に水」だった。同社は政府に屈服し、翌年記者132人を解雇・追放した。当時外信部次長だった李仁哲氏は解雇対象ではなかったが、間もなく抗議の辞表を提出して言論守護闘争委員会に加わった。KCIAから「政治記者」のレッテルを張られて失業した記者たちは、再就職先を捜したが、会社経営者たちも政府からの圧力に屈し、彼らを受け入れなかったのでたちまち記者らはたちまち困窮し、子供たちの多くが進学を断念せざるを得なかった。
[ 2013/01/09 00:56 ] 寄稿 | TB(-) | CM(-)


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