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ジャーナリスト李仁哲先生を偲ぶ  2:木村 知義(ジャーナリスト、元NHKアナウンサー)

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連載2回目は元NHKアナウンサー木村知義さん。写真は東亜日報外信部時代の李仁哲先生。

人に志あり、
いま、李仁哲氏のジャーナリス魂を偲ぶ


                 木村 知義(ジャーナリスト、元NHKアナウンサー)
李仁哲氏に初めてお会いしたのはほぼ20年前のことだ。

私にとって韓国への目を開かせてくださったのが李仁哲氏であり、東アジアへの視界に韓国の存在をくっきりと焼き付けることになったのも氏との出会いからであった。

いうまでもなく、ジャーナリストとしての志のありようと生き方に深い敬意と共感を抱く大先達であった。同時に、韓国とアジア、世界を見据える上での師であり、私にとっての韓国体験のすべてともいえる大きな存在であった。

書物などでいくばくかの勉強は積んでいたとはいえ、現場に立つという意味での私の「韓国との出会い」は遅く、1992年末に仕事でソウルを訪れたのが最初だった。仕事とはいえ韓国の「政府機関」主管の下である人物にインタビューするために出かけるのは実に気の重いことだった。

ジャーナリストだった父から、中国、アジアへの侵略と朝鮮半島植民地化の歴史への反省を厳しく教育されてアジアへのまなざしと問題意識を持つことになった。しかし、60年代初めに物心のついた私にとって韓国は、軍事独裁政権の、共感を持てない国であった。加えて、地下水脈の日韓癒着が日本の社会の変革にとって重要な問題の一つとして存在する、いわば足を踏み入れることに気持ちの動かない国としてあった。

だが、はじめて訪れたソウルの街を車で駆け抜けながら、この地は自らの足で歩かなければならないという思いが湧き起こった。翌年年初から私の韓国への旅がはじまった。その際、まず板門店と光州事件の現場に立つことなしに旅を始めるわけにはいかないという強い思いがあった。板門店への旅を終え、光州事件の犠牲者の墓地に赴いた。当時はまだ現在のような立派な国立の施設になっておらず、山間の墓地でハルモニが慟哭する姿があった。その光州からソウルに戻った日に李仁哲氏に初めてお会いすることになった。

当たり前と言えば当たり前なのだが、どんな圧政の下でもそれに抗ってたたかい、生きる人々がいる。軍事独裁政権への嫌悪からそのことへの想像力を失っていたことを、氏とお会いしながら、ただただ恥じるのみだったことをいまも鮮明に思い出す。

それから20年。とにかくソウルに出かける際には無理をお願いして時間をつくっていただいた。はじめのころはまだ声をひそめなければ話せなかったことも、時代とともに、少しは警戒感を解いて話せるようになった。民主化の時代へと歴史がすすんだことに喜びを感じながらも、韓国社会のあり方を見据える李仁哲氏のジャーナリスト魂と眼光の鋭さにはいささかの緩みもなかった。お会いするたびに考えさせられ、触発されて、韓国への視界の広がりと深まりを実感するのだった。

いま手許に亡くなる前年2010年にお会いした際のメモ帖がある。この年は三月とクリスマス直前の二度お目にかかっている。東アジア情勢、韓国の政治、経済、社会の動向についての分析とともに、ふと思い出すかのようにご自身の半生に触れてお話しされた。その時はそれほど深く考えなかったのだが、今思うとなにか予感というか心に期する思いを抱きながらお話になったのだろうと気づく。

「現在の北朝鮮の地で生まれ解放を迎えた。父が医師であることから“小ブル”だとされ1947年に南へ移り住むことになった。植民地下、小学校では日本語教育を受けた。当時はハングルの本が読めなかった。正直言うといまも当時の影響が残っていて日本への愛憎が入り混じっている。文学や芸術、技術はすばらしいものがある日本なのに植民地支配、政治は許しがたい。それにしても、地政学的に中国、日本に挟まれそしてアメリカの存在という難しい位置にあるのが朝鮮半島だ。南北が少しでも統一の方向に近づこうとすればアメリカが介入し圧力をかける。韓国国内の状況は、長いものには巻かれろという感情が蔓延している。独裁時代を経験した私たちの世代には語るべき責任があるのだが、きわめて少数の志ある人たちしかいない。そうした友人たちの多くが亡くなった・・・」
しみじみと語る李仁哲氏の声の響きが、いま蘇る。

現在の韓国のマスメディアに対する、あるいは後に続く若い世代のジャーナリストへの期待と同時に、権力や時代に立ち向かう志の衰退に深い危惧を語りながら、「今もプレスセンターに出かけて日本から送られてくる月刊誌を読むのだが、良いことを言っていると感じる日本の知識人やジャーナリストでもアメリカに対する本質的批判ができていないことに失望することもしばしばだ」と指摘されたことは鋭く胸に刺さるものであった。

その一方、少数ではあっても韓国や日本の民衆の運動に希望を持ちたいとおっしゃった言葉が心に残る。

参与連帯が力強く活動を展開している頃、安国の赤レンガのビルにあった事務所に案内して引き合わせてくださった朴元淳氏はいまソウル市長となっている。多忙の朴氏がスタッフの女性に声をかけてくださって、全国で取り組んでいる活動や国際的な連帯について話をうかがうことができたことも、かけがえのない記憶となっている。

こうして考えてみると、本当に、私の韓国での「旅」の重要な場面にはいつも李仁哲氏が寄り添ってくださっていたことに気づく。

書き出せばきりがなくなる。整理がつかなくなる。そして果てしなく思いが募る。

それまでチェーンスモーカーというべき喫煙家だった氏がふと気づくと煙草をやめられていた。しかし、飲みっぷりに衰えはなかったので体調を崩されていることには、気づかなかった。いつも楽しいお酒だった。良きジャーナリストは酒豪でなければと、なんだかここはあまり論理的ではない敬意を抱いてお伴をしたものだった。その後、肺がんに侵されているということをうかがうことになった。しかしそれがいつのことだったのか正確な記憶がない。ソウルをお訪ねする度にお元気に会って下さっていたので病のことを忘れるほどだった。

しかし、私が北東アジアをテーマにささやかな営みを重ねていることから、一昨年暮れお目にかかった際「東アジアの問題に生涯をかけてください・・・」とおっしゃったことが、メモ帳を繰ると蘇ってきて、こころに重く響いてくる。

別れ際「木村さんと一度も写真を撮っていない。一枚撮ってください」と同行していた妻におっしゃって写した写真を見ながら、そろそろまたお訪ねしなければと話していた、そんな時だった、ソウルからの訃報を受け取ったのは。
久しぶりの長沼節夫さんからの電話。

「いまソウルの川瀬俊治さんから李仁哲先生が亡くなったという電話をもらった・・・」
とにかく川瀬さんに電話をする。
しかし言葉が出なかった。なにを話したのか記憶にない。

そして、私たちが受け継いでいくべき志の重さを想った。

「生きているうちに南北が統一されて自由に往来できるようになればもう一度ふるさとの地に立ってみたい、この目で確かめてみたいと思うのです。しかし、どうも間に合いそうにないですね・・・」何度か寂しげにおっしゃったことを思い出す。

「それがかなわなければ、中国の丹東からでもいい、対岸の新義州を見たい・・・」
その言葉を聴きながら、「先生、中国の丹東にはよく行くので是非ご一緒しましょう」とは言い出せないままに終わった。

 対岸から眺めるふるさとではなく、ご自身の足で立つふるさとをと、先生と思いを一つにするがゆえにそれを言いだせなかったことを、いまは悔いる。

 であればこそ、一日も早く李仁哲先生の魂がふるさとに帰ることのできる日をと願うばかりだ。
 先生の願いとジャーナリストとしての不屈の精神をわが志として、時代と世界に立ち向かう私でありたいと、切に念ずる日々をいま重ねている。

人に志あり。
瞑目して、胸の奥底から衝き上げる、この言葉をかみしめる。
[ 2013/01/06 09:01 ] 寄稿 | TB(-) | CM(-)


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