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ジャーナリスト李仁哲先生を偲ぶ 1:古野喜政

 昨年12月2日に一周忌として催された「李仁哲さんを偲ぶ会」(ソウル市)では、「李仁哲先生を偲ぶ」上・下2冊の冊子を刊行しましたが、掲載された追悼文のうち4人の方の文書を本日から連載します。1回目は元毎日新聞ソウル特派員古野喜政さんです。写真は東亜日報外信部記者時代の李仁哲先
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ソンビ・李仁哲さんのこと


                 古野 喜政(元毎日新聞ソウル特派員)
 ぼくが毎日新聞の常駐特派員としてソウルに駐在したのは、1973年春から3年と少しだ。(2012年)暮れの大統領選の候補になっている朴クネの父、朴正熙の独裁が頂点に達して、74年8月に朴大統領の夫人が文世光に射殺されたあとは、大統領は〝酒乱〟に近いような生活だと噂されていた。夫人の代わりに、長女のクネがファーストレディ役をつとめた。その娘が大統領候補といい、目下、じゅうぶんに勝機があるというのだ。

 1100日間以上、朴政権のひどい独裁ぶりを毎日原稿にしていたぼくにとって、まさかクネが与党の大統領候補になるなんて考えもしていなかった。そして、ひょっとしたら韓国で初の女性大統領になるかも知れないという話が伝わってくる。もし、クネが勝つようなことがあれば、ぼくは韓国人について全く考えを変えなければならない。あの時代、さまざまな事件があったが、韓国のジャーナリズムの元気は最高だった。堕落の極に向っていることがはっきりしていた日本のジャーナリズムに救いようのない軽蔑しかもてなかったぼくは、どんなに羨ましく韓国のジャーナリズムを見上げていただろう。

 ぼくのソウル特派員生活で、金大中拉致事件、文世光事件、早川・太刀川事件以上におおきな感銘を覚えているのが東亜闘争だった。

 東亜闘争については中心にいた編集局長の宋建鎬さんが辞めたことを深夜に特ダネで送稿したこともあって、宋建鎬さんとは帰国するまでわずかの回数だがお会いして、韓国言論のすごさ、すでに日本言論が失いつつあるものを考えさせられた。帰国直前、ご自宅にお招きを受けたことはぼくの忘れられないソウルの記憶だ。奥さんが、山のような松茸料理を馳走してくださった。

 日本の新聞、テレビはそれぞれ韓国の新聞、テレビと姉妹関係を結んでいた。毎日は朝鮮日報で、東亜は朝日とつながっていた。だから東亜には知人、友人
は少なくなかった。東亜についてはほとんど宋建鎬局長から聴いた話といってよい。

 日本に帰ってからも、東亜の情報には注意をはらい続けたのは当然だった。宋建鎬さんの代わりに東亜の情報を教えてくれたのは、友人川瀬俊治さんからだった。李仁哲さんは、「辞める必要もない」のに東亜を辞め、ハンギョレ創刊後は外信部部長になっていた。

 李仁哲さんの〝実物〟に会え、声を聴くことができた。東亜の外信部デスクだった李仁哲さんの顔は知っていたが、〝実物〟と直接話ができたのは大阪のホテルの喫茶店だった。

 李仁哲さんのアダナが「ソンビ」だということはソウルで聴いていた(宋建鎬さんに聴いたのだったかもしれない)が、「ソンビ」というのにふさわしいジャーナリストを韓国、日本で探すなら、李仁哲さんしかいないな、と思った。

 ぼくより1歳年上で、元気そのものだった李仁哲さんが肺癌に侵されていると聴いたのは2011年はじめで、ぼくは心臓の左心室大動脈弁置換手術で神戸大学病院を退院して治療に専念していて、見舞には行けなかった。ただソンビの回復を祈るだけだった。

 ぼくは、もはや日本のジャーナリズムは回復可能の線を越えてしまっていると思う。韓国のジャーナリズムにはまだ期待可能ないくつかの要素が見える。こんな大切な局面でソンビ・李仁哲さんを失ったことは、たんに韓国ジャーナリズムの損失だけではない、と改めて考えている。
[ 2013/01/05 09:56 ] 寄稿 | TB(-) | CM(-)


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