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夜間中学その日その日 (271)   守口夜間中学 白井善吾

夜間中学生、小学生に戦争中の体験を語る
守口夜間中学がある守口市立第三中学校は2016年4月、2校の小学校と中学校が一緒になって、9年制の学校となって新しく発足する。夜間中学を擁した9年制の学校はおそらく全国初であろう。ハード、ソフト面からどんな学校にするか、地域住民、学校、行政で今、協議が進められている。


夜間中学の校区は大阪府全域である。夜間中学生も小学1年生から学ぶ学校となることを意識して、活動を進めている。
その小学校から、夜間中学生から戦時下の子ども時代の話を聞かせていただけないか申し出があった。
さっそく、クラスでその趣旨を話した。夜間中学生は子どもの頃の出来事を語り、鉛筆を持った。小学6年生に語りかける文章が出来上がった。その発表を、夜間中学に来て聞くということになった。11月12日のことだ。
「僕たちのため、こんな機会を作っていただいてありがとう。いま戦争のない平和な国にするために私たちは何ができるかを勉強しています。今日、会うのが楽しみです」子どものあいさつの後、3人の夜間中学生が子どもたちと同じ年代の頃の体験を発表した。1人の発表を紹介する。

67年目の証言 戦時中の炭焼き体験
 私の小学校は中国山脈の奥地、兵庫県の山間部にありました。
 戦争といっても、直接米軍の爆撃や空襲に遭ったわけではありませんが、1944年ごろになると、村の人たちや婦人会の人たちが学校の運動場に集まり、毎日のように防火訓練や竹ヤリの練習をしていました。
 学校の教室は、至る所に大きな文字で「撃ちてし止まん」「米英撃滅」とか「質実剛健」と書いて貼ってありました。
 1945年4月になると、尋常高等科、今の中学1年生になりました。
 その頃は、もう勉強どころではありません。学校から5キロ離れた山の奥に行き、先生と一緒にクラス全員、上級生も一緒になって炭焼きをすることになりました。
 木炭を作り、全ての燃料にするためです。
 山に行くと、勉強なんて一度もありませんでした。来る日も来る日も、先生も生徒も一緒になって、雨の日も風の日も、不満や不足など誰も言わず、ただひたすら炭焼きの毎日でした。
炭窯は2か所に作られました。1か所は上級生の窯です。炭窯に火を入れると、焼きあがるまで約1週間かかります。その間に、みんなナタ(斧)を持って山に入り、雑木林を伐採して薪を作り、炭窯の所まで運んでくるのです。
長さ1.5mの長さに切って運びますが、そのまきは13歳の子どもたちにとって、ずいぶん重かったような記憶があります。
先生も生徒も窯を休むことなく、一生懸命でした。窯を1日でも休むと、内部の温度が下がり、次の火入れがうまくいきませんので、忙しく働き続けた毎日でした。
その頃、みんな食糧難でお菓子もなく、おやつなんて何もありませんでした。
夕方、先生の号令で作業が終わり、山を下りていきます。みんな急いで家に帰りますが、私たち5人ほどは、もう一つ山を越えなければ家に帰ることができず、疲れ切った体で、必死になって岩だらけ、石だらけの道を登っていきます。すると山の中腹まで登って来た時、誰かが大声で歓声を上げました。
それは沈む夕日に映えて真っ赤に染まる山肌に光り輝く、美しい野苺の群生を見つけたのです。あの時の感激、風景。あの時の野苺の味は、忘れることはできません。今も時折、懐かしく蘇ってきます。
1945年8月15日、終戦。あれから67年が過ぎました。
尋常高等科1年生。あの時から私の勉強は止まったままです。義務教育を終わっていない私は、とても世間が狭く、肩身の狭い毎日を送ってきました。しかし、この夜間中学に入ってよりいろいろな人に逢い、過去に、あらゆる環境や境遇を経て通っておられることを知りました。少し安心しています。
時々、故郷に帰ることがありますが、帰る途中、あの険しい山や急斜面を駆け上ったことなど思い出すと、時の流れを感じます。

子どもたちを前に3人の夜間中学生は発表を終えた。疎開、空襲警報、ラジオ放送、松根油、炭焼き、赤紙、わら人形、闇市‥。夜間中学生が語ったこれらの言葉を子どもたちはどのように受け取ったのだろう。夜間中学生の語る声を、一言も聞き漏らすまいと、真剣に聞いていた。
「僕のおじいちゃんは、18歳で戦争に行く途中、戦争が終わりました。おじいちゃんがなくなっていたら、僕は生まれていません」「空襲のとき、逃げ込むところがなかったらどうしますか?」「テレビで物を盗んでいる場面がありましたがが、そんなことがあったんですか?」
小学生から出てきた質問に答えた後、夜間中学生は次のように話した。「小学1年生の時父親に赤紙が来て戦争に行った。赤紙の意味が分かりますか。お国のために死んできます。ありがとうございますと言って戦争に行きました。こんな悲惨なことありません。皆さんで話し合ってください。皆さんは来年3中に入ってくれる皆さんです。同じ校門を使って学びます。こんにちは、こんばんはと挨拶がしたい。話がしたいです。来年4月を待っています」
「国防軍の保持」を公約に掲げた政党があるが、夜間中学生にとって、学齢時に義務教育を奪われた最大の原因は日本が起こした戦争だ。訪れた子どもたちもこの公約をどのように受け取るだろう。
今の学校現場には、教員も含め、戦後生まれの年代の人間ばかりになっている。子どもたちの家庭でも、語れる肉親は本当に数少なくなってきた。夜間中学生がその役割を担っている。今回の行事はそのことを証明した。
[ 2012/12/06 23:55 ] 寄稿 | TB(-) | CM(-)


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