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奈良おんな物語《23》「奈良で女性問題の旋風と共に生きて―梅本咲子」下:鄭容順

「花ひらく―ならの女性生活史編纂」
梅本咲子さんから奈良県が指導して行われた「花ひらく―ならの女性生活史」編纂時の調査委員をした概要を話してもらった。


奈良女性史の表紙

「女性史は1人で企画しても誰もついてきません。奈良県が企画したもので奈良県の編纂史ということで調査や聞き取りを好意的にご協力をして頂きました。3年かけて1冊の女性史ができました。
県に動かされていたのですね。編纂委員には県の人脈がフル回転しました。県が公募した編纂委員65人が集まりした。私は婦人対策課の課長に見込まれて編纂委員のメンバーになり『雑記帳の集い』からも何人かが参加して頂きました。『花ひらく―ならの女性生活史』の著書のタイトル、アイデアは出しましたが皆で話し合って決まった著書名に女性の結束がでています。65人、3年間仲間割れすることなく刊行を迎えることができました。中に1人が交通事故を起こして聞き取り調査などが出来なかったものの会議には出席して頂き編纂委員のメンバーを実感して頂きました。
3年かけて編纂した著書の発刊が終わるとOBたちで『奈良女性史研究会』を立ち上げて公開講座の開催、会報の発行やフイルドワークそしてテーマを決めて聞き取り調査、他府県の研究会とも情報交換をしています。『全国女性史研究交流のつどい』に参加して分科会などで奈良県の実態を報告しています。今は人権問題をテーマにして勉強会をしています」

「花ひらく―ならの女性生活史著書」
著書は奈良県が発行、編纂はならの女性生活編さん委員会。B5版524ページ建て。目次は「奈良県の女性のあゆみ」として「1868年―1912年(明治)、「1927年―1945年(昭和/戦前)、「1945年―1959年(戦後復興期)」、「1960年―1974年(高度成長期)」、「1975年―1988年(昭和/決定成長期)」、「1989年―1993年(平成)」の7項目の年表順に編集、次は「まほろばを翔たおんなたち」として「明治」「大正」「昭和戦前期」「戦後復興」「高度成長期」「1970年代以降」の「女性たち」として調査、聞き取りしたことが記述されている。
最後は「21世紀に向けて/現状と課題」さらに「伝えたい女のあしあと―聞き書き集」に編集されている。
「聞き書き集」は「地域のくらし」「女性解放の歩み」「戦争や差別のない世界を希って」とページ建て、参考文献の一覧表も紹介された。
委員長、副委員長、執筆担当者ら20人、聞き取り協力者67人、生活体験文応募者19人、資料提供者20人、「ならの女性生活史」の調査員は7班のグループにして時代別、「教育」「労働」「婦人運動」「性」「戦争・植民地」「『家』制度/文化・宗教」「同和問題」を65人の編纂委員が調査や聞き取り、資料集めをした。
梅本咲子さんは副委員長の12人の1人として活動した。

編纂委員の名簿

編纂の活動記録

編纂の奥付

「花ひらく―ならの女性生活史」ホームページ

梅本咲子さんは「高野豆腐」を作っているという人がいると聞いて訪問したのは奈良県の過疎野迫川村、聞き取りに行くというのに訪問すると作りかたなどが書いたメモも下さった。メモは「夏場から豆腐を作るための仕事が始まる。燃料となる薪を山で作り(買い入れることもある)たくさんの薪を薪小屋に保管する。
大根、菜っ葉で漬物、芋類でおかずを作るためたくさんの農作物を作る。11月頃になり、川をせき止めて池を作る。水を地下水に流し、この水で豆をつぶす。12月に入ると橋本市や野迫川村からトラックなどでぼつぼつと大豆(満州大豆)が運ばれてくる。大きい柳行李を持った職人さん(但馬地方から冬の出稼ぎ)、高野山から歩いて野迫川村に入ってくる。毎年、ほとんど同じ人が来る。

高野豆腐のメモ

12月に入ると豆腐を作る作業に入る。大豆を桶に入れて水につけることから始める。2日ぐらいつけた大豆は水車が廻る力を木の歯車を利用して石臼を廻して大豆をひくと白い豆汁ができる。大きいたらいで釜に運び大釜で煮る。
さらに作業内容は続く。
「なぜ野迫川村で豆腐を作り始めたのか」「繁盛記は」など質問したものがメモにまとめられていた。

野迫川

「花ひらく―ならの女性生活史の刊行に際して記念式典の挨拶」
発刊の式典が開かれたのは1995年10月7日、梅本咲子さんは副委員長として挨拶された。その一文を紹介します。
≪編纂に一緒に取り組みませんか。郷土の女性の生活史という。それぞれの真摯な歩みを積み重ねてきた女性の歴史があることを忘れてはなりません。埋もれさせてはならない大切なものを訪ねて掘り起こし記録に残すのが今を生きる私たちの責務ではないでしょうか。共に学び資料を集め話し合い書きとめていく仲間を求めていますという趣旨でした。
グループ分けは本人の希望をできるだけ合わせましたが、意に添わない人も多いかと思っています。作業とは図書館や資料保存館などに出かけ新聞やマイクロから資料収集をしてくることでした。
資料収集は積み重ねでありその時代のイメージが膨らむ。書く時は実際に使うものは大体1~2割で捨てるものが多いの普通、お金や時間の無駄の集積が成果につながる。
作業の流れとして地方紙からの資料収集、そして資料カードに添付、整理表に見出しと内容の要約を記入、再度40字に集約すると奈良県の女性の生活が見えてくる年表になっていくのです。
こうしてみると一見、筋道が通っているようですがしかし作業中はまったくの手探りの状態でした。
誰かが号令をかけて指導する。そんな形を拒んだはずでしたが事実泣きました。
さて年表の作成ですが「年表はまず足から」が合言葉になるほど図書館に通いました。明治時代の初めは古文書と布告通達しか手がかりがありませんでした。
新聞は明治5年、奈良で初めて日新新聞が発刊。その後21年に養徳新聞創刊という。歩いても歩いても資料がない。果ては京都の資料館まで足をのばし直接、奈良の言葉が使われなくても奈良が見える記事を集めました。
古文書は字が読みづらい上に文語体で意味が逆になります。そこで(女)と書いた文字を目当てに探しました。携わったものだけしか分からない苦労がありました。
年表やコラム、聞き書きなどまとめる中で気づいたことがあります。
明治には奈良県の再設置という出来事があります。それまで奈良県は他県から軽く扱われていました。また農家の長男と女子は教育がないと考えられていましたが授業料は国費に変えるなどにして女子教育に力を入れてきたことがあります。
大正は大正ロマンと女性が華やいで見えましたが男の視点で捕らえた正義感が色濃く根付いていました。
昭和の初期は国策で日本が第2次世界大戦に突入していく様をより強い関心をもって調べました。戦後復興期からは新聞を読んで発見したこととして記者に男性が多いためか女性を扱った記事は「半分正しいが半分は間違っている」という声が上っています。
人生の中心にある世代の負わなければならない問題を背負って編纂作業に励んだ日々でした。互いに支えあって発刊を迎えたのです」と結んでいる。
(文書は1部だけ抜粋しています)

「他の活動」
―奈良市消費者モニターOB会(じゃがいもの会)―では「資源再生等における小売店の実施状況及び意識調査報告」の冊子も出して活動。また「平城遷都1300年記念祭」を記念して発足した―万葉研究会・わぎもこにも活動、演劇活動で「万葉の世紀を生きた女たち―女性の視点から」を大林実亀さん(女性史研究会会長)作のシナリオにして表現をしている梅本咲子さんです。

じゃがいも会の冊子

万葉会のちらし

万葉人の梅本さん

万葉劇のヒトコマ1

万葉人のヒトコマ②

「今も活動して」
梅本咲子さんは今も「花ひらく―なら女性生活史」の編纂委員らが創設した「奈良女性史研究会」の会員として研究会会議や講座学習に参加している。

女性史研究会の受付

11月28日の水曜日、奈良県女性センターで「歴史に学び 未来を拓く」の公開講座が開催されて「実践の人―市川房枝の足跡を検証する!」と題して戦前・戦中・戦後を通して日本の婦人運動を体現し一貫して婦人参政権運動(婦選運動)一筋に歩んできた市川房枝。市川房枝も戦時には戦争協力に転換したとして市川房枝を検証した。「未来の真の平和を築くために後に続く人たちのために今、私たちが何をしなければならなないのか」という趣旨の学習会。30余人が参加していた。
「映画『87歳の青春、市川房枝生涯を語る』鑑賞」「年譜を通して市川房枝の軌跡をたどる」「市川房枝の戦争協力・戦時体制加担への理由を検証」の3項目から行われた。

公開講座1

資料は「市川房枝自伝・戦前編」「市川房枝の年譜と戦争との関り」から報告したのは同代表の大林美亀さん。
梅本咲子さんは会場で受付を担当していた。
大林さんの説明によると市川房枝と戦争に反対した山川菊枝の2人を通して1904年から1945年の日本の敗戦まで比較。山川菊枝は1932年に「婦選獲得同盟」の方向性に警告、婦人解放と正反対の方向と批判をした。しかし市川房枝は「婦選獲得同盟」を創設して困難の中にも1940年、市川房枝は国民精神総動員中央本部に任命されていく。いわゆる戦争に加担したという。
講座は2時間半、参加者は熱心に聞き入り若い世代の印象として「市川房枝の名前は聞いていても活動内容を知らなかったことでこの場で知ることが出来た」と話し戦前生まれは「同じ時代に生きた者として追体験をしながら学習をしていた」と話していた。
大林美亀さんは「山川菊枝さんのことをもっと知ってもらいたい」と話し梅本咲子さんは「山川菊枝さん、当時は貴族議員です。恵まれた環境の中にいたのか自由に発言できたかもしれない。しかし市川房枝さんは一般人、国策に逆らえない当時の戦争の世相が浮かびあがってきます」と話す。
女性たちが調査した資料で学習していく。
「花ひらく―ならの女性生活史」を編纂した体験は今も生かされて学習が続けられている。

公開講座2

女性史研究会冊子1

女性史研究会冊子2

「筆者の感想」
80歳を生きた人生、膨大な資料に正直戸惑った。
資料は多いほど物書きは嬉しいことはない。はたしてこの資料、全部生かすことができるのかと脳裏を駆け巡る。
しかし梅本咲子さんの歩いた戦前・戦中・戦後の人生の記録は残さないといけないと考えて何から手をつけようと思った。
筆者が思ったことは外見からは梅本咲子さんは華やかな人生、苦労知らずに来られたとばかりと思っていたが生々しい結核闘病の体験、筆者は以前に少しは聞いていたものの想像を絶する病との闘いだったことを知った。今では「ストレプトマイシン」という医薬は死語になった。しかし戦後の日本は栄養失調で蔓延していた多くの結核患者を助けた。
梅本咲子さんが「日本が戦争に負けたから私は生きることができた。アメリカの薬で助かることができた」という言葉に筆者は絶句、言葉が出なかった。
敗戦の1年前に生まれた筆者と昭和7年生まれの梅本咲子さんは満州事変が起きた翌年に生誕、ほとんど戦争と向き合ってきた世代、「生命」と対峙して生きてこられたことを痛切した。
生命に対する思いと戦争に対する拒否感が心に突き刺さった。少し文書が長くなっても梅本咲子さんが書いた病の記録を全部掲載した。
女性史の編纂も重要にして活動、雑記帳の集いも奈良女性フォーラムも奈良県の女性たちが活動する先駆けの1人になった。

梅本咲子さんは結婚を機会にして奈良に住んで人と人との出会いに自分の人生を自分の手で切り拓いてこられた。そこには持って生まれた天性、話術の素晴らしさが人をひきつけていった。
筆者は現在、誰ともよく話すが子どもの頃は会話ができなかった。友達も作れない不器用な子どもだった。いつのまにか書くことで自分の心を書いてきたが梅本咲子さんは話して書いていくことのできる人にまた改めて認識をしている。
仕事もして活動もしてこられた。生きるという底力とエネルギーにも驚いている。梅本咲子さんはクリスチャンです。毎週、尼崎市の教会に行くという。そのバイタリテイはどこから来ているのか。
奈良と一緒に歩いてこられた梅本咲子さんをここに紹介してほっとして安堵感が走っている。平城宮跡に咲くススキの大群のように仲間と仲間とのつながりがそこにあるようだ。

<写真説明>1「花ひらく―ならの女性生活史」の表紙。2「花ひらく―ならの女性生活史の編纂委員の名簿。3「編纂委員の活動記録」4「花ひらく―ならの女性生活史」の奥付。5高野豆腐について聞き取りをした野迫川の人から頂いたメモ。6「過疎・野迫川村についてのレポート」の新聞記事。7奈良市消費者モニターOB会(じゃがいもの会)で発行した「資源再生等における小売店の実施状況及び意識調査報告」の冊子。8「万葉研究会・わぎもこ」が主催した演劇で万葉人になった梅本咲子さん。9・10「万葉研究会・わぎもこ」が演じた梅本咲子さんたちの1コマ。11・12「奈良女性史研究会」の冊子。13「奈良女性史研究会」で受付する梅本咲子さん(左)(奈良県女性センター)。14「奈良女性史研究会」での公開講講座。15講演会の後、残った人たちが記念撮影。梅本咲子さんは左から3番目、2人目は9月「奈良おんな物語」で紹介した尾崎恵津子さん。尾崎恵津子さんも女性問題と向き合っています。(注・名簿と高野豆腐のメモの写真にはほかしを入れている)
[ 2012/12/01 07:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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