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奈良おんな物語《23》「奈良で女性問題の旋風と共に生きて―梅本咲子」上:鄭容順

「プロフイル」
梅本咲子さんは1932年生まれ、今年で80歳です。現在は奈良市内に在住。生まれは大阪市だが、兵庫県尼崎市でほとんど育った。
戦前・戦中・戦後を生きた人生、体験したことは「生きる」ことだった。
「生きる」ことは行動して自分の生きた足跡を残していく。


喫茶店の梅本咲子さん2012-10-2

さらに戦前生まれの体験は生活に密着した「男女間」のあり方だった。
結婚したのは30歳、結婚を機会に奈良市内に住んで3人の子どもをを出産した。しかし5歳の時に長男は病死。長男の病死で心が折れそうになるところ作文、文書を綴って自己の心に癒しをしてきた。
奈良市が公募していた「父母のつづる教育作文」に応募したのは1975年、昭和50年のことです。
このとき5歳7ヶ月で亡くなった長男のことを書いて「父母のつづる教育作文」に入選した。2つの地方新聞の取材を受けた。1つは奈良新聞に勤務していた女性記者の取材で、これが後に思いがけない活動の展開になった。
当時、スターなどの自殺が多くフアンが後追い自殺をする人がいたことから「生きている、生かされている命を大切にしてほしい」を訴えた作文を「母の願い」と題して書いた。投稿先が判らず他社に送ったところ「寄稿」として1面に掲載された話を聞いた女性記者は、奈良新聞の紙面に女性が投稿する「雑記帳」という投稿欄が設けられている。「奈良新聞にも投稿して読者とつながるページがあります」と話す。
そのページの投稿欄に投稿する人が少なく1週間に1人2人という。このコラムを復活させようと言う事になり、女性記者は社内外に奔走して「雑記帳」という投稿欄の活性化に「雑記帳の集い」というペングループを発足させた。
「雑記帳の集い」は5人が発起人となった。
女性記者はやがて「奈良女性フォーラム」も立ち上げて梅本咲子さんも関るようになった。続いて奈良県の女性史の編纂「花ひらく―ならの女性生活史」の調査員に加わった。3年かけての編纂だったが「花ひらく―ならの女性生活史」を発刊する編纂委員の一人にもなった。
この間「奈良市消費者モニター」にも参加して町の中の消費者の1人として調査に関わってきた。
戦前・戦中・戦後と駆け抜けた人生は「命」と向き合い死線をさまよったことは戦後、生きるそして活動するエネルギーになった。
10月と11月、2回お会いして80歳になる半世紀を4時間程度の取材でここに記述することになった。まだまだ聞き取れない数々がある。
しかしとりあえず区切りをつけてここに80歳の女性の人生を紹介します。

喫茶店で資料を見せる梅本咲子さん。2012-10-2

年表の資料

「青春1」
梅本咲子さんは「女性史研究会」の冊子に青春時代の1コマを冊子に寄せている。タイトルは「私の青春時代~あの坂を下りた日から」というところに書かれている。ここの1文を紹介します。冊子は2010年9月に「奈良女性史研究会」が発行されたものです。
内容は抜粋しないでそのまま紹介、長文ですが戦後の日本の混乱期の様子と病気と闘った梅本咲子さんの生き様が伝わってきます。

―冊子から―
『私の青春時代~あの坂を下りた日から』
1960年、私は中学卒業を前にして就職活動に入った。
結果は不採用だった。今度は同級生のお父さんの世話で応募した。しかし、それも同じ知らせが届いた。ある日先生が「話があるから」と私の家を訪ねた。そして「卒業証書は出すので明日から学校を休むように」といった。企業が私を拒んだ理由は肺浸潤だった。
当時は「朝起きると何となく身体がだるい」という程度の自覚症状で治療は週に1度、気胸(気膜腔内に400ccの空気を入れる)を受けていた。病気に対する知識もないまま定時制高校に進んだ。その上、無謀にも昼間は身体検査のないところで働いた。製薬工場で終日、薬の包み紙を折ったことがある。仕事が単調なため私語が多く、ことに10代の私に猥談は聞くに堪えなかった。三日で退職した。
縫製工場では終日、カッターシャツの袖口のあて布にアイロンをかけていた。職場は効率を高めるためだろうか。嫌気のさしているころ、百貨店のタイプライター売り場を紹介された。喜んだのも束の間、今度は店主が逃げてただ働きになった。
「昭和家庭史年表」には、1950年3月、新制中学初の卒業生に求人がなく8割が失業、また4月27日、衆・参両院で結核予防対策強化について決議。11月16日、結核対策本部を設置。などと記載されている。
敗戦色の濃い尼崎の新三和から立ち上がった闇市で同級生がウサギを売っていた。「かわいい」と覗き込んでいると後ろから誰かがお金を払った。両耳を掴まれたウサギは裏に消え、しばらくしてビンク色の肉が客に手渡された。
またそのころ神田商店あたりが夜の女性のたまり場になっていた。やはり覚えのある顔があった。目が合うと「メンチを切った」と追いかけられた。
焼け跡にバラックが建ち始めても物資の不足は続いた。幸い私たちの家族は戦災で家は焼けたが父が大企業に勤めていたので社宅に入ることができた。それでも終戦直後の生活難を目前にして私はじっとしていられず、貪欲に職場を求め続けた。
映画館へ面接に行ったとき、社長が「ここはあんたのような堅気のお嬢さんが来るところではない」と、私を諭して帰そうとした。それがどういう意味なのか知るよしも無く私は強引に居座った。数日後、ヒロポン中毒の青年がズボンの上から注射器を突っ込んでいるのを目撃した。
秋になると私にも異変が起きた。出勤と同時に寒気が襲い日当たりのよい場所で太陽にあたる日が多くなった。悪寒が治まった後、顔面が火照るのを感じていた。顔色を失いもはや体力の限界に達している私の姿を見かねた父が医師を訪ねた。「このまま好きなようにさせて下さい」と担当医は死を宣告した。思い余った父は近くにある県立病院に再度、受診させた。所見は同じだった。
しかし「すぐ療養所を探しなさい。運がよければ輸入のマイシンで助かるかもしれません」と、院長は付け加えることを忘れなかった。
帰路、さっそく父は闇市でマイシンを購入した。
1本3千円だった。3本買った。そして「これだけが精一杯やから―」と因果を含めた。(私の下には弟妹たちが3人いる)さすがにマイシンの威力はすごい。私はその後しばらくは小康を保つことができた。
(当時の物価の価格は米1升160円、森永ミルクキャラメル20円、細切れ牛肉100匁70円)
翌年の2月、私は大阪国立療養所に入所した。その日の朝、今生の別れを覚悟した父と母は闇市で購入したのだろう。新調の着物を着せてくれた。そのときの歩くたびにシャキシャキと鳴った人絹の裾さばきの音が妙に心に残っている。
看護師は私を詰め所に近い6人部屋に案内した。最初に目に入ったのは窓際のベッドだった。そばに上品なおばあさんが付き添っていた。掛け布団を覆う赤い花柄模様の銘仙の羽織が主の存在を示しているように感じた。
その向かいの布団が畳まれていた。彼女と私は同い年だった。以来、人が好きな私はホームシックにかかるどころか水を得た魚のごとく日々を楽しんだ。
ときたま気分の良い日は細い指先で私の髪を中央で割り左右に丸くクーニャンのように結い上げて一緒に歩いた。色白で撫で肩の彼女は私より年上に見えた。
「可愛い?」上機嫌の私は見せびらかすようにして各部屋を周った。そして所内の演劇部に入ることを誰彼となく話した。このとき「ここは遊びにきているのではない!」と怒鳴る声がした。
窓際にベッドのある私の視線の先に桜の木があった。早春のころ、幹で戯れる猫の母子を眺めるのが楽しい。桜が咲き暖かさに誘われて少し遠くまで歩いてみた。
ある日、慌しい空気と一緒に27~8歳の女性が入所してきた。2人の男性が付き添っている。自殺未遂としう声が聞こえる。インテリらしい青年の1人は隣の療養所に入っている様子、もう1人別の青年と自殺を図ったらしい。時限爆弾を時計に仕掛けて山に入った。しかしいざとなったとき男は逃げた。1人で死ぬのも悔しいので帰ってきたと後に彼女から聞いた。彼女は戦後、台湾から引き上げてきた寄る辺のない独り身という。
「アア!風を吹け、嵐よ起きよ!」突然発する彼女の切なく呻く乾いた声に何度私は心を痛めたことか。
この青年たちが私の病状を聞いて肺葉切除を薦めた。そして当時その道の権威者だった宮本忍先生にレントゲンを送るように送るようにアドバイスをした。結果は冊子「健康」に最適の事例として紹介された。彼らは自分の考えが的中したことに喜んだ。そしてこの朗報を父に伝え説得した。
「あかん。娘の身体に傷を付けたらあかん」
頑として父は首を縦に振らない。
「この手術をすれば娘さんの命が助かるのですよ!」
何をいわれても父の心は変わらなかった。

★「わが国の結核治療法の変換」を見ると大正13年レントゲン療法、昭和2年サノクリジン注射療法、5年人口気胸、8年無塩食餌療法、22年外科療法、25年ストレプトマイシン療法、26年肺切除、28年肺区域切除、30年科学療法となっている。

≪私の場合、右肺上葉部に空洞があったので肺区域切除を薦めたことは青年たちの知識の先取性を表している≫

6月になると私の容態は一変した。腸結核と病名が変わり体重も激減した。
1日に20数回のトイレ通い、そのうえ朝は35度前後、夜は40度近い発熱の繰り返しに「もうこの梅雨越されへんかも」と周囲から囁かれ始めた。事実、梅雨に入ると棺の通る数が増した。
「『窓開けて』いうたら魂が抜けるねんで」
そんな言葉を耳に届き「今なら父母は別として他に泣く人がいない」と心を鎮めていた。

突然真っ赤な顔をした男性が私のベッドに近づいてきた。氷を割り私の水枕を取替え金魚鉢を掴むと出ていった。暫くすると新しい水になった金魚鉢を枕元に置いて帰っていった。彼は何も話さなかったがその仕草は私が退所するまで毎日続いた。顔が赤いのは熱の所為だと後で知った。過日、私を叱った男性である。彼は名前を名のらなかった。「キズミのオッチャン」としか私は覚えていない。
やがて待望のマイシンが入荷した。40本という大量の注射液で私は見る見る元気を取り戻していった。一方、経済的に助っ人が出現した。生活状況を聞いた共産党員から市に高額医療費の支払い請求をする手続きの助言を受けた。教えられたとおり私が手紙を書き母が民生委員や尼崎市役所を尋ねるという連携で事が運ばれた。こうして健康保険と尼崎市の恩恵を受けることができたのは二重の喜びである。
「『おふくろが死んだ』」
彼がバケツの底にキャラメルを3個入れて持ってきた。相変わらず赤い顔をしていた。
10月、遠くで祭太鼓が鳴っていた。私は母に電話をした。
「下駄持ってきて!」
この日が再びめぐり、来るなんて予想もしなかった。
「2度とここを出ることはない」と考えた私は入所のとき母に履物を持って帰ってもらった。
1951年の秋、私は国立大阪療養所の坂を駆け下りた。生還の1歩がこの日から始まった。
(注)参考資料「昭和家庭史年表」家庭総合研究会編 河出書房新社
今回は文書の記述が長くなるのを覚悟して梅本咲子さん自身が書いた記憶の文書をそのままに掲載した。

梅本咲子さんは結核から生還して80歳まで生きた命の感謝を話した。
「もし日本があのまま戦争していたら私の命はありませんでした。死んでいました。戦争に負けてアメリカが占領軍になって日本に入ってきました。文化も入ってきたがストレプトマイシンという薬も入ってきたのです。日本ではなくアメリカの輸入薬です。この薬のおかげで私は生きることができました」と戦争に負けたことを自分に対しての意味と日本の敗戦を話した。
そして現在(いま)生かされているとして「闘病は私に『生きること』と『待つこと』を教えてくれた」と話す。

筆者は「日本が戦争に負けてアメリカの薬で助かった」という言葉は強烈に胸に刺さるほどだった。戦争体験をしてきた語り部がいなくなっていく。戦争前後の語り部の記録は残しておかないといけない。多くの人も戦争の語りを残してくれているが奈良市内に住む1女性の体験も残さないといけないと考えてここに記述をした。

筆者が幼少時、隣近所に結核で親たちが入院して子どもたちにも感染していく。
そして親が居ない子どもの大変さをまじかに見ていた。結核患者が入院すると町の保健所が来られて家中を消毒していかれた。
幸い筆者の家では結核患者を出すことがなかった。
筆者の父が小学生の子どもにいった。
「周りは結核患者を出しているのに家(うち)はなぜ結核にならなかったかというとニンニクの入ったキムチや食べ物を食べているからや」と。
ご馳走を食べた記憶はない。
しかし韓国料理の食材は医食同源、捨てるものがないほど何でも食材にして食べた。その調理方法は1世たちが日本植民地支配の中でも身体を守るために工夫して智恵を出したものだった。それが骨を作り身体の滋養になった。

肺結核患者は梅本咲子さんに限らず日本社会の中で蔓延していた。
戦中・戦後と物資不足の中で命だけでもと生き延びたもののどこかで身体にひびが入っていた。サツマイモにかぼちゃ、米粒の少ない主食にいつしか病の身体にしていた。
筆者の幼少時の記憶を手繰り寄せると現在の若者たちは戦後の日本を知らない。戦後の苦しい時を克服して生き延びてきた人生、先輩の生き様を知ってもらいたくてここに文書を掲載した。

「青春2」
国立大阪療養所を退院して自宅で療養する生活を送っていた。
おかげで貰った命、風のままに過していた。28歳だった。
父親の夢ははこのまま家にいて文書など書いて生活をすればいいと思っていた。
吉屋信子のような生活、自分の手元においておきたかった。父は縁談が来ると自分の手元とで縁談話を止めていた。
見合いの釣書を頼まれて渡すと
「こんなに年とってはったん」とガッカリさせてしまう始末。
「それなら自分で見つけてやる」と心に決めた。
父の夢を裏切って仕事をすることにした。近くの紳士服店で働くようになって男性を見る目を培った。
「男前でも煮え切らない人がいる」そして人は見掛けによらない事を知った。この間、経理専門学校に通い経理の仕事を少し習った。
中小企業とはいえ、憧れの御堂筋に職場を得た。ランドセル・旅行鞄・販売の会社で経理課に入社。

梅本咲子さんは経理の職場の合間に百貨店のランドセル売り場にも入った。
持って生まれたものだったのか。
周りから「真面目で人の心を読み取るのが早い」といわれる。これは紳士服店で働いた経験がしらずしらずに生かされていたのかも知れない。
梅本咲子さんが販売に入ると売上が倍増した。販売成績の結果が出る営業の面白さ、醍醐味を知った。
努力家の梅本咲子さんは営業の仕事の記録ノートを作った。上司に提出した。
伴侶は梅本咲子さんより5歳年下だった。
男性は「営業」に所属していた。「営業」は男性の多い職場、若い男性も多かった。経理の窓口から見えるその男性は、ハンサムで襟足のきれいな人だった。

会社は難波にあった。灘波から梅田までの御堂筋を2人でよく歩いた。難波から梅田を2往復して梅田の喫茶店に行った。彼は23歳。私は28歳。同期に入社して彼の方が昇進していく。若くても男性はどんどん昇進していくという時代だった。
「見合い話が来ているので結婚する」と話したら彼は「どうぞ」といった。

神が縁を結んでくれたのか。
彼は血を吐いて病院に入院、結核だった。奈良が出身なので奈良の病院に入院した。会社の若い女性たちが見舞いに行くというので一緒に見舞いに行った。お母さんが付き添っておられた。
若い女性はお母さんの付き添いに何も話せず、病室の隅に固まってしまった。梅本咲子さんはお母さんと気さくに話しをした。
結婚後聞いた話だが、お母さんは「あの女性ええな。」といった。

そして会社は1961年(昭和36年)に倒産した。社員一同離散していたったが残務整理のため、役職と経理は残った。
梅本咲子さんは「国つぶれて会社もつぶれた。2人が残って雑務整理するのも運命でした」と話す。
そして結婚から逃避していた彼は当時の吉井咲子さんにプロポーズをした。
「君の望んでいるように結婚しょう。君がすることに僕は支えになっていく」といった。縁ある出会い、「結婚」をすることになった。
結婚して奈良に住んでここから梅本咲子さんの「女性と一緒に活動していく」という転換期になった。
その最初は子どもが就学する学校のPTAの役員をして「父母がつづる教育作文」に入選して奈良県内で活動していた女性新聞記者と出会って奈良新聞の紙面「雑記帳」の投稿欄に関るようになった。
女性記者はいった。
「『雑記帳』という投稿欄を通して女性が集まるグループを創設して奈良県の女性史にしていこう」
心を動かされた梅本咲子さんはさっそく女性記者と会員の呼びかけに奔走した。奔走したのが1979年、発起人5人と一緒に準備すること1年、1980年の6月、発会式と第1回の総会にこぎつけた。

2度目の転換期は女性記者たちと一緒に活動団体を作った「奈良女性フォーラム」ここから発展してできたのが3度目の転換「奈良県女性史生活史」の編纂委員になって65人のメンバーは3年かけて調査して発刊した。
「奈良県女性史生活史」を機会にしてOBたちは「奈良女性史研究会」を発足して今も活動、また「1300年平城遷都記念祭」を記念して「万葉研究会・わぎもこ」を発足して万葉歌を素材にした活動が行われ「奈良市消費者モニターOB会」も発足して活動している。

見た目は肺に穴があいていて肺活量1900とは思えないエネルギッシュです。
何も病気をしないで戦前・戦中・戦後を駆け抜けてこられた人生に見える。しかしそうではなかった。戦争中は命との戦いだった。戦争が終わると今度は自分の病との闘いだった。乗り越えてきた人生、努力すれば道が開くというのが1つの教えになっているのだろうか。

<写真説明>1奈良市内の喫茶店でコーヒーを飲みながら半世紀を聞く。80歳とは思えない若さあふれる活力です。 2「なら女性史生活」の編纂で足を棒にして探し歩いたという年表作りの「粗年表作成様式」の資料を見せている梅本咲子さん。3「粗年表作成様式の資料」です。

[ 2012/11/27 07:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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