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奈良おんな物語《21》「女性問題と向き合って―尾崎恵津子」上:鄭容順

「プロフイル」
尾崎恵津子さんは(77歳)、1935年(昭和10年)神戸市で生まれて、1945年高槻市に少し疎開をしている。戦後、神戸市に戻って1953年、神戸山手女子高校を卒業。1956年、結婚して西宮市に居住。1958年、長男を出産そして1960年に次男を出産した。事情があって義姉の子ども保育をすることになって神戸市に移転。



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1964年、吹田市に住まいを移してから尾崎恵津子さんは自分と向き合い周りにも向き合うなかで女性に対する社会の矛盾などにぶつかって意見を述べて行動していく。社会参加は子育てのPTA活動から始まった。
この時の活動の1つ、1966年、「市町村選挙にかかわって『女性議員を議会に送ろう』」という運動をした。
1986年(昭和61年)奈良市に住まいを移して奈良県・奈良市などで「女性と社会と暮らし」について学び意見交換をしてきた。
その活動の1つが社団法人・国際女性教育振興会であり奈良市国際婦人交流会である。また「奈良女性史研究会」にも関わって活動してきた。
戦後、民主主義国家になった日本だが一般の生活者、なかでも女性の地位は何も変わることなく男女格差の中で社会は動いていた。
そんな矛盾に声を上げて自分自身の問題として次世代に繋いでいく。女性問題の提議と実践を地道に活動をしてきた。
戦前に生まれて戦中、戦後を生きてきた人生の語り部、社会世相と変遷の語り部です。

筆者は尾崎恵津子さんと以前から何度かお会いしている。奈良に住んでいてどこか違う感性の女性と思っていた。やはり今回の取材でお話を聞くことになってその感性は神戸出身からとわかった。
神戸は山と海に囲まれた町です。海岸沿いの平地から坂道を上っていくと坂道の中に町が形成されている。山の手に向かって上りきったところは神戸の町が一望できる六甲山です。なんともいえないエキゾチックな町なのです。
神戸は港町で多くの外国船が往来し外国人が昔から多く住んでいる。人々の暮らしはまた大阪や京都と違う風情がある。
尾崎恵津子さんは神戸に生まれて育っているが空襲に2回もあっている。
一時は大阪府高槻市に疎開をしている。
「なによりも助かって生きてきてよかったと思います」と、戦争中の空襲警報のなる町で育った尾崎恵津子さんは話す。
戦時中は爆弾が落ちてくる。
急いで防空壕に逃げた。
5人の子どもと両親は爆弾の落ちる中を生きてきた。
神戸に戻っても焼け出されたので生活は楽ではなかった。
祖父と父は自営業していたが空襲の影響で生活は大変だった。けれど尾崎恵津子さんは高校を私立中学・高校が併設している学校に行きたいといった。両親は尾崎恵津子さんの希望をかなえてくれた。
「月謝の高い学校でした。母は娘でも学校に行かせる。教育はお金ができてからできるものではない。就学時に勉強するものである」と尾崎恵津子さんは母親の言葉を話す。
小学校1年の時は神戸市の県庁の側に住んでいてすぐの裏には諏訪山公園があった。東灘区の元山町には川崎航空の飛行場があった。元山町は外国人が多く住んでいた。今、思うと川崎航空という飛行場に在日コリアンも多く住んでいたように思っている。
子どもの頃から結婚するまで過した神戸の戦前、戦後の記憶をたどりながら話される尾崎恵津子さん。戦後、尾崎恵津子さんは生かされた命を、一所懸命に前を向いて生きてこられた。筆者はそう感じた。
生かされた命を通して次世代に語り残していく意味も理解できた。戦中の体験は後の人生に大きい影響を与え強く逞しく心優しく培う糧になっている。

<写真説明>2012年8月21日撮影。取材で近鉄学園前駅近くの喫茶店でお話を聞く。筆者が在日韓国人の新聞記者になった25年間というのは奈良の女性たちの活動とは空白期間になった。空白時代の女性たちの活動が絵本のように動いていくようだった。

[ 2012/09/25 07:10 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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