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奈良おんな物語《19》「日航客室乗務員からマナーインストラクター・出口郁子」中:鄭容順

「客室乗務員の管理職」
現在は「スチュワーデス」という言葉は使わなくなって「客室乗務員、または CA」という言葉を使う。以前は「スチュワーデス」から「アシスタントパーサー」「パーサー」「チーフパーサー」の順で昇格していった。機内を総括するのが「チーフパーサー」つまり機内の責任者、客室乗務員は乗務経験があると自動的に昇格してアシスタントパーサーになる。アシスタントパーサー、7年目でパーサー、パーサー8年目でチーフパーサー。(これは出口郁子さんの昇格ですが平均の昇格速度です)


但し男性の客室乗務員は初期の採用者を除いてアシスタントパーサーからスタートした。業務内容は、機種によっても異なるが、ベテランの乗務員はビジネスクラスとエコノミークラスの統括です。責任者であるパーサーやチーフパーサーはファーストクラスやビジネスクラスなど、その飛行機の一番前のクラスを担当する。
以前はスチュワーデス(女性)、スチュワード(男性)という呼び名、船の司厨員に由来している。長く使われた言葉だが現在は「客室乗務員」呼び名は違うが仕事は同じで乗客が飛行機の旅を快適にかつ安全に過ごせるようにサポートする仕事です。
機内の仕事はお茶・アルコールを配って食事の配膳、寒そうな人や眠っている人には毛布を配る。不安そうな人には声をかけてできるだけ快適な旅ができるようにしていく。
特に国際線では外国人の乗客やVIPも多く日本を代表するつもりで気品とユーモアのある対応が要求される。
飛行機に万が一のトラブルが起こった時(たとえば突発の急病人・ハイジャック・故障による緊急着陸)に、冷静に乗客に指示して落ち着かせパニックになる被害を最小限に食い止めるという保安委員の役割もある。
客室乗務員についてのホームページを参照。

「御巣鷹山・日航ジャンボ機の事故」
1985年8月12日、日本航空123便、ボーイング747SR―45(ジャンボジェット)が東京羽田発、大阪伊丹行きが群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹山の尾根)に墜落した。
乗員乗客524人のうち死亡者数は520人、生存者(負傷者)は4人、死者数は日本国内で発生した航空機事故では2012年7月の時点で最多である。単独機の航空事故でも世界最多である。
お盆の帰省ラッシュそして夕方のラッシュと重なった。
歌手の坂本九さんら著名人たちも多くの犠牲を出した。
事故の原因は報道などで何度も知らされてきた。
ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が原因とされている。遺族からは再調査をいわれているもののまだされていない。
「日航ジャンボ機墜落事故」、日本国内はもちろん世界に衝撃を与えた。

出口郁子さんの若い頃

筆者もあの当時のことはまだ鮮明に記憶に残っている。
筆者は当時、「月刊奈良」編集局にいた。本社は奈良新聞社だった。
社員たちも盆は実家や旅行にと計画を立てていたときだった。
それでなくても奈良新聞社は日刊紙の発行、交替で盆休暇をとらないといけない新聞社の宿命だった。
そして8月12日、午後6時56分。真夏のことで外の日差しはまだ暑くて明るい夕方に「日航ジャンボ機墜落事故」の一報が入った。
奈良新聞社の編集局には共同通信のニュースが即時いつも取れるようになっていた。テレビはいつもつけられていた。
騒がしい編集局で皆それぞれの部署で仕事をしていた。
原稿出稿は7時がタイムリミット、編集局のデスクたちは出稿された記事を整理して印刷にまわす作業に追われていた。そんな時に入った1報、編集局は騒然となった。
それから奈良県に犠牲者はいないか。社員が手分けして情報収集にあたった。当日の新聞印刷は大幅に遅れたことを記憶している。夜中に印刷をした新聞をトラックに乗せて各販売所に送りだしたことをデスクから後日談として聞いている。
奈良県の著名人、タレントの明石屋さんまさんがこの飛行機に乗るはずだったが1便早いのか遅いのかずらして乗ったことが後でわかってきた。
記者たちが手分けをして明石屋さんまさんの家族、他に奈良県内の乗員や乗客たちの家族たちを取材に駆け回った。
筆者は関連企業の「月刊奈良」編集局にいたので奈良新聞編集局のてんやわんやの作業現場は見ていない。後日談として大変だったことを記者やデスクたちから聞いた。日航ジャンボ機墜落事故の一報が飛び込んでからは筆舌に尽くせないほど情報収集と編集会議で忙殺された。日航ジャンボ機墜落事故の当日の紙面の組みなおしになったとも聞いている。
現場記者はもちろんデスクたちや社員は3・4日、風呂にも入れず寝ずに取材と記事出稿に追われた。もちろん他紙の新聞社も同じだった。
「日航ジャンボ機墜落事故」と聞くとこの事故の一報を受けたマスメディアの大方1週間は徹夜、徹夜だっただろう。
筆者は当時、まだまだ新米記者だった。上司たちはこの事故の記事をどうするのかは話していたことは聞いている。結局、記事は本社の奈良新聞に託された。1日1日と情報が入って変わるニュースは新聞メデイアだった。
そんな在りし日を思い出している。

「出口郁子さんの御巣鷹事故の記憶」
その日の記憶を出口郁子さんに聞いた。
一文を寄せて下さった。
〈御巣鷹の事故の日、私はヨーロッパから仕事で帰ってきました。会社に着くまで知らなくてまだ行方不明の段階でしたが大騒ぎでした。
飛行機がジャンボ機と聞いてショックでした。
当時は1番働きやすくて1番安全な飛行機だったからです。
あの年の1月に父が亡くなりました。私には新盆でしたので、次の日に奈良に帰る予定でした。
母は私が帰省するために1日早い飛行機に乗っていたのではないか、墜落した事故機、あの飛行機に乗っていたのではないかと心配して会社に電話してきたそうです。上司から「お母さんが心配なさっているから、すぐ家に電話しなさい」といわれたことを覚えています。
墜落した飛行機は国内線でしたので私の知り合いはあの飛行機にはいませんでしたが当時の私にはすごくショッキングな事故でした。
事故が起きるはずがないという神話が崩れた瞬間でした〉
この一文に当時の記憶が甦ってきた。
そういえば「奈良に帰る人が13日の飛行機だったので事故にあわなかった人がいた。お盆の帰省で家族が心配していた」といっていた。
記者やデスクたちの情報収集の大変さをまた改めて思い出した。

「最後のフライト」
最後のフライトの写真説明で出口郁子さんから送って頂いた文書を紹介します。
〈私にとって、2010年(平成22年)5月15日、ロンドン発、成田着402便が最後のフライトになりました。お客様が降機後の機内のことです。
ファーストクラスの客室にコックピットクルー(機長、副操縦士)と客室乗務員の全員が集って皆さんから記念品を頂きました。私はアドバイザーという立場(いわゆるチェッカーです)で乗務していましたので客室乗務員は初めての方ばかりでした。ラストフライトも同乗の客室乗務員に話さず、ひっそりと辞めていこうと考えていたのです。それが私の友達に同乗の客室乗務員の知り合いがいたのです。私のラストフライトが友達から同乗の客室乗務員に知れることになりました。
最後のロンドンの夜は皆さんとイタリア料理店へ行き楽しい一時を過ごすことができました。

最後のフライト・花束を頂く

最後のフライト-記念撮影

そして、最後のサプライズのセレモニーをしてくださいました。
ラストフライトで泣くまいと思っていたのに皆さんの暖かなセレモニーに思わず涙がでました。この時の写真が一生の宝です〉

その宝物の写真を拝借して画面構築にご協力をして頂いた。
最後のフライトの様子に筆者自身も熱いものがこみ上げてきた。
<写真説明>1、週間文春のカメラマンが撮影。客室乗務員になってから5年という1980年(昭和55年)の撮影。日本航空の客室乗務員がお勧めスポットを紹介する特集記事の掲載のため会社から依頼、就航していたフイジー共和国の記事を作成したことで撮影。 2、最後のフライト2010年5月15日、キャプテンから花束を頂き思わず涙がこぼれた。 3、予想もしなかった最後のフライトのセレモニーで記念撮影、その日に一緒にフライトした人たちです。

[ 2012/07/26 06:00 ] 鄭容順 | TB(-) | CM(-)


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