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コラム「風」時代の転換期に、百済・対馬を思う:嶋村初吉

 かつて国境の島、対馬(長崎県)の城山に登ったことがある。標高300メートル足らず。登り道の傾斜はなだらかで、山頂まで1時間も要しない。山の眺めは絶景。日本の百名山に入っている白嶽(519メートル)には、少し及ばないが、浅茅湾を眼下に360度のパノラマが広がる。このときの仲間には登山が好きな金纓さん(キムヨン。文学者、金素雲の長女)も一緒で、彼女は白嶽の山頂に立ち「日本でも指折りの名山ね。眺めが抜群。韓国も望めるし、最高」と感激していた。

▼城山の中腹には、石垣の跡が散見できる。古代の朝鮮式山城、金田城(かなたのき)の跡である。新羅と唐の連合軍に国を滅ぼされた百済の遺民が指導して築城した。663年、白村江の戦いの後である。新羅が倭国に攻め込んでくるのではないかと危惧した大和政権は、対馬、大宰府、基山(佐賀)、中国・四国地方にも朝鮮式山城を築城した。

▼この古代山城をめぐり、国境の島、対馬で古代山城サミットが10月5、6日に開催される。全国から研究者や古代史ファンが集まる。いま、対馬では行政を中心に、大会を盛り上げようと、PR活動が展開されている。

▼朝鮮式山城は、当時の緊迫した空気を伝える史跡である。日本は敗戦国の一員として、新羅から敵対視され、これを受けて、大和政権は防備を固めるとともに、国力の充実に乗り出す。その一端を物語るのが、最近、福岡県太宰府市の国分松本遺跡から出土した木簡である。長さ30センチ、幅8センチの薄板の表と裏に、130以上の漢字が墨書きされていた。内容は、人名や身分、続柄を記したもので、この木簡から大和政権は戸籍の作成を急ぎ、徴税と徴兵のための基礎資料にしたものとみられる。

▼激動の時代、曖昧な事なかれ主義は許されなかった。これは時代の転換期にしばしば見られる。白村江に象徴させる百済救援戦争の目的は、倭国による百済王冊封をその軍事力によって達成することにあった。しかし、狙い通りには運ばなかった。

▼倭国の軍隊に護衛されて百済への帰国を果たした余豊璋と鬼室福信の対立が生まれ、ついには余豊璋が福信を殺害してしまうのである。百済復興の戦いは、内部抗争を起こしてしまった。さらには、663年8月28、29日にわたり、錦江沿岸にあった倭国水軍に唐水軍を襲う海上戦で敗れる。戦力では、倭国が上回っていた。唐水軍170艘に対して、倭国水軍は400艘だったと史料から推測される。しかし、倭国軍は敗れた。敗因は、明確な戦略目標を喪失しながら、全軍の意志を統一しないまま、唐水軍に戦いを挑まなければならなかったところにある。

▼百済の滅亡が、どのようなものだったか。いまBSで韓国歴史ドラマ『ケベク(階伯)』が放映されているが、後半で一部明らかになるのではないか。ケベク(?-660)は百済滅亡時の百済将軍。ケベクは迎撃の将軍に任ぜられると、決死を覚悟した兵士5千人を選んで5万人を上回る新羅軍に対抗した。ケベクは百済の危機は必至として、奴婢になるよりは死を選ぶとして妻子をことごとく殺してから戦場に赴いた。ケベクは「昔、句踐(こうせん)は、5000の手勢で70万人の敵を打ち破った」と百済兵を励ましつつ奮戦して、黄山(現在の忠清南道論山郡)で新羅軍を4度まで敵を退けたが、ついに力尽きて戦死した。

▼倭国が冊封した百済王、余豊璋の取った行動が白村江における勝敗を分けたのであった。すなわち、豊璋が必ずしも倭国の思惑通りに動かなかったことが、白村江の大きな敗因だったのであり、その意味においても白村江の敗因は倭国の冊封の弱さと限界が認識されたものと考えられる。

▼白村江の戦いの後、倭国は百済の遺民を受け入れ、半島情勢を意識しながら国内体制を固めて行った。百済の遺民として、近江朝で最高位の文官として活躍した鬼室集斯、官僚で万葉歌人として有名な山上憶良がいる。亡国の遺民が、倭国の国づくりに貢献したのである。

▼翻って現在、国境の島は、どのような状況にあるか。朝鮮半島に最も近い対馬は、2008年、産経新聞や週刊誌が「対馬が危ない」「韓国に乗っ取られる」とセンセーショナルに書いた。韓国人観光客が増加し、韓国資本による土地買収、なかでも自衛隊基地の隣地まで買収された事実を指摘して、「国防の危機」と大々的に報じた。

▼独島をめぐる領土問題も吹き出した時期でもあり、韓国の民族主義者が対馬市役所前で、抗議行動をとったことで、さらに注目を集めた。島には右翼の街宣車が走るなどは騒然となり、この現状を憂える超党派で組織した国会議員が視察に訪れた。しかし、それが「国境の島」対馬の現状を変えるムーブメントにはならなかった。

▼領土問題が発生すると、真っ先に話題になる対馬ではあるが、国境の島をどう位置づけ、どのように整備するのかについて、政府としてのビジョンが見えない。離島振興法が切れる2013年3月末を前に、離島では県や国に提言をしているが、民主党政権には、そこまで手が回らないようである。沖縄基地問題、オスプレイの配備、TPPなど課題は山積した状況下、政府の対策は後手、後手に回っている。

▼国境の島においては、とかく防衛上の問題がクローズアップする。それはそれでいい。
しかし、島の自立には、現状を分析した上で、先々を展望したビジョンが必要である。
2期目を迎えた財部市政は、「国境の島」をどう生かしていくか、模索しながら動いてい
る。大きくいえば、内なる資源を開き、外との交流・連携に力を入れている。対外的に
は韓国・釜山との関係強化はもとより、最近、中国・上海市崇明県と友好締結をしてい
る。

▼対馬は、国内観光客相手では沈んだ状態にあるが、韓国からの観光客は好調である。釜山まで、約50キロ。博多までは約130キロ。韓国に一番近い島で、現在、3社(韓国系2社、JR九州)が釜山―対馬(厳原、比田勝)間に国際航路を就航させ、高速艇を走らせている。この効果から、韓国の観光客が月に約1万人、来島する状況にある。

▼また、厳原港の海底浚渫工事を終え、大型客船が入港する時代を迎えた。「交流」こそが、島の活路を開く大きな要石ととらえているようだ。その交流の歴史は、対馬が黄金時代を迎えた江戸時代、日朝間を12回にわたり往来した朝鮮通信使がモデルとなっているはずである。

▼尖閣諸島の国有化が、日中の火種になっている折、海底資源をめぐり、国境線、国境の島に対するビジョンが求められているのは明らかである。政治家は国家観と経世済民の志をもつべきであろうが、それが余り感じられない。激動の幕末、越後長岡藩の運命を決した河井継之助の言葉を贈りたい。幕府が朱子学を官学にしたのに対して、長岡藩は陽明学を藩学に据えた。陽明学は「知行合一」を思想とする。河井は、その思想を極めていった人物であった。

▼司馬遼太郎は、『峠』のなかで、河井継之助にこう語らせている。
「にぶい、というのは時勢に対してである。時勢に対し、緊張感も危機感もない」「ご自分でおそらく藩政の正面からお退(ひ)きさがりになりましょう。なぜならば、この地球がどうなる、日本がどうなる、されば藩がどうなる、そのときどうすべきか、ということを、おそれながら家老は日夜考えておられません」
[ 2012/08/04 00:00 ] 嶋村初吉 | TB(-) | CM(-)


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